「遊星からの物体X」 1982年 アメリカ

監督;ジョン・カーペンター   出演;カート・ラッセル、A・ウィルフォード・ブリムリー
2004年12月27日 DVD・自宅ごろ寝シアター 

SFホラー。吹雪に閉ざされた南極のアメリカ観測基地。ノルウェー基地から来た1匹の犬により未知の生命体が侵入した。それは、人間や動物を取り込み、対象物そっくりに同化してしまうエイリアンだった。
この映画の怖さは、誰がエイリアンか分からないこと。人間vsエイリアンの対決に加えて、閉ざされた空間で互いが互いを疑いあう、醜い人間関係が展開される。人間の肉体・精神そのものを奪って、人間の世界にコソッと忍び込み、人間同士の信頼関係を失わせることで、人間自らの手で破滅に向わせる。これは、はっきりと敵と分かる化け物に襲われるより怖い。
そして、エイリアンの見せ方が絶妙。エイリアンは変幻自在で完成形がない。姿形がはっきり分からないのは見る者に恐怖感を与える。ぴちょぴちょはねる触手、うひゃっと逃げる血液、さささと走り去るカニ足…ディテールだけを見せ全体を隠し、怖さを煽るところは煽って、ここぞというところでエイリアンが人間に同化するドロドログチャグチャの過程をばーーんと惜しげもなく見せる。同化過程の造形と特撮も素晴らしい。人間の形が崩れて、目まぐるしく不気味な姿に変化していく。ぬめっとした質感や、生温かい温度まで感じさせる。これは、現在の味気ないCGでは表現できないと思う。
この映画のラストシーンには、ある"秘密"が隠されている。観る人がそこに気付くかどうかで、この映画の恐さが、全然異なってくるのだが…。"秘密"ってなーんだ?。気が付いた人は、決してBbsなんかでネタバレしないでね。ふっふっふ(^^)。

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「ソドムの市」 1975年 フランス=イタリア

監督;ピエル・パオロ・パゾリーニ 
出演;パオロ・ボナチェッリ、ジョルジオ・カタルディ、カテリナ・ボラット、アルド・バレッティ
2004年12月18日 DVD・自宅ごろ寝シアター 

パゾリーニをはじめて鑑賞。この映画について何か書くには、他の作品もいくつか観て、パゾリーニをもっと知ってからの方がいいかなぁと思う。でも、私には衝撃の映画だったので、今の段階で考えたことをまとめておくことにした。
パゾリーニは、なぜ映画史上最も衝撃的な問題作を遺したのか。観た人が、映画のなかに手がかりを探し、パゾリーニの問いかけをちょっとでも考えるかどうかが(正しいかどうかは問題ではない)、この映画の評価の分かれ目だと思う。ここを考えようとしなければ、ただの変態・虐待映画でしかない。
私は、ここで描かれるような享楽目的の残虐行為を認めたくないが、否定もできない。その"種"は誰もが持っていると思うから。人間は本来、欲望や快楽に対して非常に弱い。しかし、"種"が発芽しないのは、道徳や宗教が際限ない欲望を戒めて人間のなかに理性や良心を育て、暗黙のうちに最低限の公共秩序を身につけさせるからだ。もっと現実的なレベルで言えば、法律と刑罰によっても抑止されている。そして、大多数の人は世間に迷惑を掛けない範囲で、自分の欲望・快楽を実現する。
映画のなかの判事、大統領、司教、侯爵は、宗教・道徳による罪悪感をまったく持たず、何にも裁かれない絶対的な権力者だ。彼らは欲望を制御するものがすべて取り払われ、丸裸にされた人間像なのだと思う。そのような人間にとって、権力により支配できるものは、例え同じ人間であっても、究極の欲望・快楽を満たすための"モノ=道具"にすぎないから、何の躊躇いもなく、むしろ喜々として、徹頭徹尾、残虐になれる。私がショックだったのは、悶え苦しみながら死んでいく人間を目の前にして、権力者たちが腕を組んで脳天気にダンスするシーンである。あれほどまで人間の命、尊厳を虚仮にしたシーンはないと思う。堕ちるところまで堕ちるという言葉があるけれど、ここでの人間像には"堕ちてたどり着くところ"なんてない。ただ、どこまでも堕ち続けていくだけ。虐待される少女が神に救いを求めたり、これ見よがしに聖母マリア像を写し込むカットがあるが、神は欲望・快楽の追求を邪魔するものと考える彼らの前では、神さえも空虚で、無力だ。
ただ、この映画に良心や救いが皆無かというと、そうでもない。例えば、奴隷の青年が権力者たちに銃を向けられた時、こぶしを突き上げる。彼にとっては精一杯の抵抗。しかし、たったそれだけの行為に、権力者たちが一瞬怯むのである。もう一つは、ピアニストの自殺。あれは良心の呵責からくる自殺だったと私は思いたい。
そして、1945年イタリアを舞台に設定した意味も考える必要があるだろう。パゾリーニが左翼であったことを考えると、あの狂宴の館はファシズム国家の暗喩であり、ファシズムへの痛烈な批判が込められていると思う。
ラストの地獄を見ながら頭に浮かんだこと。今も性的犯罪、快楽殺人は尽きないし、惨殺死体の写真集が販売されたり、ネットで公開されたり。残虐な行為に快楽を求める人間はなくならない。また、国家レベルで見ても、20世紀100年振り返っただけで、権力者の勝手な理屈で、理不尽に命を奪われた人々が一体、何千万人いるか。アウシュビッツの死体の山、日本兵の中国人・朝鮮人虐殺、カンボジアの大虐殺、最近でもルワンダなど民族同士の虐殺…。『ソドムの市』はパゾリーニの妄想ではない。映画のなかのような権力者、地獄は、現実のなかにいくらでも見つけることができる。変態、悪趣味、嫌悪…何とでも批判はできるが、それだけでこの映画から目を背けていいのだろうか。(ただし、興味本位ならば観ない方がいい)。

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「ビハインド・ザ・サン」  2001年,ブラジル

監督;ウィルター・サレス
出演;ロドリゴ・サントロ、ラヴィ=ラモス・ラセルダ
2004年12月10日  新宿武蔵野館3 

荒野に住む二つの家族。長年、血で血を洗う土地争いを続けていた。プレヴィス家の次男トーニョは、フェレイラ家に殺された長男の敵を討つが、次は自分が命を狙われる。そんな時、サーカスの少女クララと出会う。
殺されたら、殺す。復讐は家の名誉を守るための義務。義務を果たせば、次は自分が敵に討たれる=死の運命を背負う。トーニョはこの運命から、自力で逃れ、自分のための人生を切り開こうとはしなかった。しかし、彼の弟パクーの真っ直ぐな愛情が彼の背中を押した。家族のなかで幼いパクーだけが、名誉のための殺し合いが不毛であることを悟っていたのだと思う。その純真さには泣ける。
この映画では暗喩的な映像が多く使われる。暗喩的な映像は意外に難しい。凝りすぎると、ピントがぼやけて意味が分かりにくくなるし、逆に、分かりやすいと陳腐になる。しかし、この映画の暗喩的な映像は、どれも美しく、胸に沁みていくような残像が残る。ストーリー自体は淡々としているが、暗喩的な映像によってストーリー以上の深み、広がりを持たせることに成功していると思う。
例えば、復讐される運命を背負ったトーニョは、枷を外されても働きつづける牛、空中で縄が切れるブランコのイメージ、他方、放浪者のクララは人魚や海のイメージが重ね合わせられる。クララ=人魚は、荒れた砂地で虚しい名誉に縛られた兄弟にとっては自由そのものであり、彼女への恋は自由な人生への憧れ。兄弟は、クララとの出逢いによって外の世界をはじめて知り、それぞれの人生=海へと旅立つ…。また、表現方法だけでなく、作品全体が寓話的。報復が報復を招く終わりのない争い。現在、まさに世界で起こっているテロや戦争を思い起こさずにはいられない。
主演のロドリゴ・サントロ。かっこいい〜!o(^-^)o 。こういう重々しい映画には、チョットかっこよすぎるぐらいだ。最近、気になっていた『ラブ・アクチュアリー』にも出演しているらしい。これは、もう絶対に観なければっ!。

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「ノッティングヒルの恋人」 1999年,イギリス

監督;ロジャー・ミッチェル
出演;ジュリア・ロバーツ、ヒュー・グラント
2004年12月4日  シネマクラブ第28回上映会 

タッカーはバツイチ、ロンドンのノッティングヒルで旅行書専門の地味な本屋を経営している。ある日、店に大女優のアナ・スコットがあらわれた。
お洒落で、センスが良くて、心地良い夢を見たような気持ちになれて、私はこの映画好きだなぁ。話は非現実的かもしれない。でも、女優と本屋さんほどドラマティックではないにしても、すべて恋のはじまりは偶然と奇跡だし、一緒にいる時の幸福感や、気持ちが素直に伝えられないもどかしさ、自分がどう思われているのかという不安…誰もが経験する、恋した時のみずみずしい心情を思い出させてくれる。こういう映画にときめく気持ちだけは、いくつになっても持っていたい。
キャスティングが良い。アナ役のジュリア・ロバーツは大女優としての存在感もあり、でもタッカーの前では、お茶目だったり、寂しさや弱さを見せるところは、女性からみても可愛いと思う。「私も一人の女性よ」という台詞を嫌味なく言える大スターって、この人ぐらいかもしれない。タッカー役のヒュー・グラントは、二枚目だけど、ちょっと頼りない感じの役が本当に上手い。アナが女優であるゆえに傷ついたり、気持ちが伝えられなかったり、どうして良いか分からずに思い悩む姿は、切ないし、彼の友人でなくとも、がんばれ〜!とつい肩入れしたくなってしまう。
そして、二人のラブストーリーをより魅力的にしているのが、一つは、脇を固める個性的な友人の存在。友達の言葉や手助けが、恋の行方にとても重みを持っていて、でも決して大げさにならずに、良い味を出していると思う。また、友人達もそれぞれ恋愛や人生に苦しい問題を抱えていて、それがさり気なく描かれることで、アナとタッカーの恋愛を相対化する。つまり、大女優と本屋さんの恋愛だからって特別なわけじゃない、たくさんある恋愛の一つだよ、という感じが上手く演出されていると思う。
二つめは、センスの良い笑い。イギリスの笑いは、この作品も含めて言えることだけど、ネタは過激でも、知的で品がある笑いにしてしまう。シネマクラブの解説で、脚本がリチャード・カーチス、Mr.ビーンの生みの親ということを知り、納得してしまった。最近、DVDが発売されたリチャード・カーチス脚本『ラブ・アクチュアリー』も観たくなっちゃったな。

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「わらの犬」  1971年,アメリカ

監督;サム・ペキンパー
出演;ダスティン・ホフマン、スーザン・ジョージ
2004年12月4日  DVD・自宅ごろ寝シアター 

数学者のディビッドは研究に没頭するために、アメリカから妻の故郷であるイギリスの田舎に移り住んだ。しかし、そこで待っていたのは、よそ者・インテリに対する冷ややかな目と暴力だった。
私はかなりショックを受けた。暴力に対抗するには、結局、暴力でしかないのだろうか。村人たちが暴力によってディビッドの領域=家に踏み込んだ時、「暴力は許さない」と言っていた彼も暴力で自己防衛せざるをせなくなる。恐いのは、ディビッドが次第に残忍性をむき出しにし、暴力に快感を覚えていくことである。その変貌する過程が、ダスティン・ホフマンの素晴らしい演技、暴力シーンの演出によって見事に描写される。用意周到に待ち伏せ、罠を仕掛け、音楽で自らを昂ぶらせていく。狂気じみていくディビッドの暴力には、終いには見ている方も、彼が何のために暴力をふるっているのか、分からなくなってしまう。最後、「全員倒した」と薄笑いさえ浮かべるディビッド(ホフマン)はかなり恐い…。そうは思いたくないけど、「暴力は許さない」という主義信条が、現実の暴力の前にはいかに脆いかということを見せつけられたような感じがした。
最近では、この映画以上にもっと残虐な暴力シーンの映画もある。しかし、この映画の凄いところは、暴力をより効果的に、凄まじく見せるための演出だと思う。前半部分でやや飽きるぐらいに、よそ者・弱い者に対する冷ややかな目、村の閉鎖性、陰鬱な日常などディビッド夫妻や村人のなかに鬱屈した心情が静かに堆積していく過程が描かれている。だからこそ後半部分の暴力シーンが、何か爆発するような怖さを持って迫ってくるのだと思う。また、殴りとばされる人間をスローで撮ったり、暴行シーン、その回想シーンを細かいカット割りで不安、緊張感を持たせるなど、かなり意図的に印象に残るような見せ方をしている。
タイトルの『わらの犬』は、老子の言葉で、人間の行動は護身のために焼くわらの犬のようにちっぽけな存在にすぎないという意味だそうだ。奥が深い…。

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