「ニューオーリンズ・トライアル」 2003年 アメリカ

監督;ゲイリー・フレダー
出演;ジョン・キューザック、ジーン・ハックマン、ダスティン・ホフマン
2004年2月26日 新宿文化シネマ3

ネットの情報では新宿スカラ座だったが、隣の文化シネマ3に移っていた。ここはスクリーンがすごく小さかった記憶が…入ってみると、やっぱり小さかった…。これなら、シネマクラブが利用している集会所のスクリーンの方が立派だ。
社会派法廷サスペンスドラマ。銃乱射事件の被害者が銃器メーカーに対して訴訟を起こす。原告側の弁護士は、自分の良心だけに従う正義派のローア。一方、被告の銃メーカー側は、陪審員コンサルタントのフィッチを雇う。フィッチは陪審員候補者を徹底的に調べ、銃メーカーに有利な陪審員を選び、評決の裏工作を図るのが仕事。勝つためには非合法の汚い手段も使う。しかし、フィッチが要注意人物としたニックが、陪審員になってしまったことから裁判はフィッチの予想外の展開へ。ニックはフィッチとローア双方に評決を売ると持ちかけ、他の陪審員たちを巧みに操り、審議を混乱させる。
どこに真意があるかわからないニック、彼により次第に焦燥感をつのらせるフィッチ、良心が揺らぐローア。最初から最後までピーンとした緊張感を強いられるスキのない作品だった。キャスティングも良い。フィッチ(G.ハックマン)とローア(D.ホフマン)の凄まじい対決には息を飲む。超大物俳優相手に、ニック(J.キューザック)もひけをとっていなかった。
難点を挙げれば、最近のアメリカ映画は社会派ドラマが下手。被害者vs銃メーカーという表面的な対立構図しか見えてこない。その下にある、なぜ銃の自由な所持が問題なのか、法律的な争点、さらに欲を言うと陪審員制度の問題などをもっと掘り下げられないのか思う。娯楽重視と言われればそれまでだが、アメリカでは非常に関心が高い問題を扱っていながら、観客に銃問題を考えさせるほどのインパクトがなかったのは残念。陪審員として『フラッシュ・ダンス』のジェニファー・ビールスが出演しており、ちょっと懐かしかった。

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「ストレンジャー・ザン・パラダイス」 1984年 アメリカ

監督;ジム・ジャームッシュ 
出演;ジョン・ルーリー,エスター・バリント,リチャード・エドソン
2004年2月20日 DVD・自宅ごろ寝シアター

先週アメリカン・ニューシネマを2本見たが、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』はアメリカン・ニューシネマ、その後の世代だと思う。80年代、ドロップアウトした若者は自由・反体制の象徴ではなくなり、無気力さだけが残った。この映画から漂うやる気のなさといったら(笑)。
ハンガリー移民ウィリーと友人エディは、毎日、ありあまる時間をギャンブルで潰している。そこにウィリーのいとこのエヴァが訪ねてくる。二人は彼女が気になるが、恋愛に発展することもない。エヴァを誘ってフロリダへ旅に出るが、やることと言えばやっぱりギャンブル。彼らはNYでもフロリダでも何も変らない。ウィリーは、ベラというハンガリーの名前を捨て、アメリカ流のTVディナー、フットボール観戦、滑稽なほどにアメリカ人になろうとしている。マイノリティを主張するのではなく、マジョリティになることに努力を傾ける。長髪やバイクで「自由・反体制」をアピールし(『イージー・ライダー』)、フロリダに行けば人生が変ると信じた若者(『真夜中のカーボーイ』)は、もういない。
映像はモノクロ。カメラはほとんど固定で、長まわし。1シーン、1〜2カットぐらい。シーンとシーンは数秒間の黒いフィルムで繋がれる。単調な運びが、何にもおこらない退屈な日常、無気力感をあおる。3人がお互いの気持ちが読めないために、すれ違いのように別れていくラストが印象的。
今思うと、目的もなく、持てあました時間を無駄に過ごした青春時代。私はアメリカン・ニューシネマに憧れる「ストレンジャー・ザン・パラダイス」世代だなぁと思った。

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「ダウン・バイ・ロー」 1986年 アメリカ

監督;ジム・ジャームッシュ
出演;トム・ウェイツ、ジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニ
2004年2月20日 DVD・自宅ごろ寝シアター

ジャームッシュの説明によれば「ネオ・ビート・ノワール・コメディ」。モノクロ。チンピラのジャック、失業中のDJザックは刑務所の同じ獄房で知り合う。二人とも女のヒモで、クールで身勝手。気は合うがケンカもしばしば。狭くて退屈極まりない獄房、長く感じる時間。ジャームッシュがよく使う固定カメラ、長回しのカットが続く。そこにテンションが高くて、空気が読めないイタリア人、ロベルトが入ってくる。獄房の雰囲気が一転する。退屈に押しつぶされそうだった二人がロベルトのテンポにだんだんと巻き込まれていく様子が可笑しい。ついにはロベルトに乗せられて、脱獄までする。
話が非現実的とか、脱獄が簡単すぎるという評価もあるが、そこはあまり重要ではないと思う。渋くて格好いい空間にある「間」の可笑しさや(それはほどんどロベルトによって生み出されている)、ジャームッシュにしか創れない映像を味わう作品だから。
この映画は学生の頃『ストレンジャー・ザン・パラダイス』とともに劇場で鑑賞した。今回、DVDで改めて鑑賞し、出演者を見て驚いた。トム・ウェイツとロベルト・ベニーニだったのか!(気付くの遅いって…)。トム・ウェイツは、『スモーク』のエンドロールの曲を歌った歌手。ロベルト・ベニーニは説明するまでもなく『ライフ・イズ・ビューティフル』の監督・主演。今考えると、凄いメンバーだ。
この作品の後ジャームッシュは、『ミステリー・トレイン』、『ナイト・オン・ザ・プラネット』を撮るが、この辺になると、面白いけれど、映画の作り方がパターン化してきたような感じがして、その後は見るのを止めてしまった。しかし、次のモノクロ作品『デッドマン』(ジョニー・ディップ主演)が高い評価を得ているようだ。私が観たいなと思った頃には、DVDはもの凄いプレミアがついて手が届かなくなっていた…。レンタル屋にはないし、あーあ、観たいなぁ…。

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「イージー・ライダー」 1969年 アメリカ

監督;デニス・ホッパー
出演;ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン
2004年2月14日 シネマクラブ第18回上映会

アメリカン・ニューシネマ代表作。アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半から70年代にかけて、社会からドロップ・アウトした若者たちを描いた一連の作品。ベトナム戦争を背景に、無軌道な生き方、ドラッグ、暴力、セックスなどアメリカの影の部分をさらけ出した。
ドラッグで金を稼ぎ、バイクで気ままに旅をするキャプテン・アメリカ(P.フォンダ)とビリー(D.ホッパー)。「なぜ俺たちは嫌われるんだ?」。彼らに同行するアル中弁護士(J.ニコルソン)は答える。「自由な人間だから怖いのさ。自由を説くことと自由であることは違う」。このセリフに作品のすべてが集約されているように思う。旅の間、彼らを受け入れたのはヒッピーの集落?か、金で買った女だけ。社会に順応して生きざるえを得ない普通の人たちは、彼らをためらいなく排除し、片づける。
自由を説いている国にも、「自由」はない。多分、10代の頃にこの映画を観ていたら、ここで思考はストップしていたと思う。しかし、多少、年を重ねてくると、悲しいかな、保守的になってくる。何でもありが「自由」なんだろうか?。彼らの「自由」にはもう共感できない。自分も彼らを排除する側の人間であることを自覚させられてしまった。
演出やカットも行き当たりばったりの感じで(計算して、そう見せているのかもしれないが)、ストーリー性もあまりなく、彼らの気の赴くままに流れていく生き方を上手く表現していたと思う。

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「真夜中のカーボーイ」 1969年 アメリカ

監督;ジョン・シュレンジャー
出演;ジョン・ボイド、ダスティン・ホフマン
2004年2月14日 シネマクラブ第18回上映会

アメリカン・ニューシネマ。テキサスからカウボーイ姿で意気揚々とNYに出てきたジョー(J.ボイド)。計画性もなく、真っ当に働く気もなく、金もつき、堕ちるところまで堕ちるが、それでも金持ちの女相手に体を売って金を稼ぐことしか考えない。ハッキリ言ってダメ男だ。NYで知り合いになったラッツォも廃墟に住みつき、せこい盗みでその日暮らしがやっと、その上に体はボロボロ。NYの寒くて暗い冬が、都会の最底辺に生きる二人の惨めさを象徴しているようだ。
しかし、ほんの少しだけ救われたような気持ちになるのは、二人の友情が丁寧に描かれているからだろう。ラッツォが最期まで憧れたフロリダ。太陽が燦々として、明るい。いろんな意味で寒々とした大都会・NYとは対照的だ。NYを飛び出して、ジョーは、はじめて自分が甘っちょろかったことに気付く。NYでは決して手放そうとしなかったカウボーイの衣服をゴミ箱に捨てるシーンが印象的だ。でも、それも遅すぎた。
問題提起としては「イージー・ライダー」の方が過激かもしれないが、「真夜中のカーボーイ」は物語や演出が作り込まれていて、作品としての完成度は高いように思った。監督がイギリス人というのも興味を引く。これがイギリス人が見たアメリカ社会ということか。
シネマクラブのチーフが書いた解説を読んで知ったのだが、アンジェリーナってボイドの娘なのか〜。そう言われると、若い頃のボイドに似ているかな?。

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「ぼくの好きな先生」 2002年 フランス

監督;ニコラ・フィリビール
出演;ロペス先生と13人の子供たち
2004年2月7日 下高井戸シネマ・モーニングショウ

最近は足が遠のいているけど、下高井戸シネマは一番よく行く映画館。こぢんまりしていて、上映作品も好き。(^^)
「ぼくの好きな先生」はドキュメンタリー映画。ドキュメンタリーというと過激なテーマが多い感じがするが、これは田舎のありふれた日常。フランスの農村にある小さな小学校、ロペス先生と13人の子供たちの冬から夏にかけての学校生活を撮影した作品。淡々としていて、やや退屈かもしれないが、私はこういうの、大好きです(^^)。
3才から11才までを一人で教えているロペス先生。小さい子は座ってることさえ難しいし、上級生になると、ケンカしたり、自分の世界にこもって他人と話しない子がいたり、複雑な悩みも持つ子もいる。「どうして学校にくるの?」、「なぜケンカするの?。相手のどこが気に入らない?」、「人と話すのが嫌なの?。自分の世界に入っていたいだけなの?」。ロペス先生は勉強だけじゃなくて、ひとりひとりに話かけ、子供たちが自分で自分の問題に気付くように導いていく。父親が重い病気の子には「病気は人生の一部だ。ある日突然やってきて、人間は病気と一緒に生きていくんだ」と励ます。生半可な優しさじゃなくて、人生が厳しいことも、先生との何気ない会話のなかに出てくる。そんな先生の言葉にジーンと来てしまう。
特に目を引いたのは4才のジョジョ。一番、落ち着きがない子供だ。冬には10まで数えられなかった子が、夏には1億とか100億という数字があることをちゃんと知っている。その成長ぶりには驚いた。
先生と生徒なんだけど、それ以上の結びつき、人間と人間のふれ合いを感じさせる。久しぶりに、心洗われる作品であった。

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「永遠のマリア・カラス」 2002年 伊・仏・英・スペイン

監督;フランコ・ゼフィレッリ
出演;ファニー・アルダン
2004年2月7日 下高井戸シネマ

下高井戸シネマで、午前に『ぼくの先生』を観た後、午後は『永遠のマリア・カラス』。ゼフィレッリとアルダンの組み合わせにそそられた。ゼフィレッリと言えば、日本では『ロミオとジュリエット』だろう。しかし、私は『ブラザーサン・シスタームーン』に思い入れがある。これは、10代の頃に観て、とても感動した映画。ファニー・アルダンも好きな女優だ。フランソワ・トリュフォー監督が最後に愛した女優。これは観なければなるまい…。
予想に反して、いきなりパンク・ロックからはじまったので度肝を抜かれたが(@_@;)。期待は裏切りませんでした。愛人のオナシスを亡くし、声も衰え、絶望の淵にいるマリア。そこにカラス復活の企画が持ち上がる。カラス主演のオペラ映画「カルメン」。現在のカラスが演じて、声は絶頂期の頃の録音で吹き替えるというものだった。マリアは悩むが、承諾する。
「カルメン」の撮影で彼女は希望を取り戻していくが、吹き替えは彼女にはやはり偽物でしかなかった。マリアがホセ役の若いオペラ歌手に惹かれる。そして二人で抱き合うところが鏡に映り、それを見たマリアが理性を取り戻す場面がある。若くて有望な才能と、老いた自分。撮影は、彼女にとってはかつての声が出ないことをようやく受け入れ、諦めるその過程だったのだと思う。私も年を取れば、諦めていく事が増えていくと思う。マリア・カラスの人のように名声を得た人なら、凡人の想像など及ばない苦しみだろう。
見どころは、まず劇中劇の「カルメン」。歴史映画を多く撮影し、オペラに造詣が深いゼフィレッリ。さすがです。こういう映像は得意中の得意という感じ。そして、アルダンの演技。声が衰えていく苦しみ、恋人を奪われた憎しみ。それらを胸に秘めて歌うその表情。「カルメン」のなかでホセを誘う悩ましげな目つきには、背筋がゾワゾワした。当然、音楽も素晴らしい。マリア・カラスの歌声にはオペラを全く知らない私でも魅了された。場面場面で、マリアが自分自身の気持ちと重なる役柄のアリアを歌う。歌がとても効果的に選択されていたように思った。
ストーリーは個人的にはそんなに面白いというほどでもなかったけど、映像、音楽、演技派の役者たち、バランスのとれた良い映画だなと思いました。

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