「真珠の耳飾りの少女」 2003年,イギリス=ルクセンブルク

監督;ピーター・ウェバー
出演;スカーレット・ヨハンソン、コリン・ファース
2004年7月30日 シネ・スイッチ銀座 

フェルメール「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」は、いかにして描かれたのか。この疑問から生まれた小説が原作(トレイシー シュヴァリエ著)。1665年オランダのデルフト。タイル職人の娘グリートは、フェルメール家にメイドとして雇われた。フェルメールはグリートの天賦の美的感覚により創作意欲が刺激され、やがて絵の具の調合も手伝わせるようになる。しかし、長時間アトリエで過ごす2人に、妻カタリーナはいらだつ。
グリートとフェルメールは互いに愛情を抱いてるが、その感情は自制され、プラトニックな恋愛関係にある。絵を見つめるグリートの表情、絵の具を調合する2人の手、モデルとしてのグリートと絵を描くフェルメール。静謐なアトリエで、2人は誰も立ち入れない2人だけの聖域をつくりあげる。しかし官能的でもある。頭巾に隠されたグリートの長い髪が顕わにされたり、グリートの耳にピアス穴を開ける行為は2人の性愛的な感情の暗喩だと思うが、ゾクッとするほど官能的なシーンだった。グリートは言う「心まで描くの?」。2人っきりの世界を創りあげる喜びと、自制されているゆえに漂うエロスと。黒をバックに、肩越しに振り返った少女の絵には、2人の間にあるそんな幸福感と緊迫感が漂っているようにも見える。
映像がとても美しい。冒頭、グリートが野菜を切るシーンから目を奪われた。ほとんど自然光だけで撮影されたのではないかと思わせるほどライティングが自然で、画面は全体的に暗め、色彩も抑えめ。それだけに、アトリエに差し込む柔らかな光に照らされた白い真珠の光沢、ラピスラズリ色のターバンが鮮やかで美しいこと。気になって、カメラマンを調べたらエドゥアルド・セラ。『髪結いの亭主』をはじめ、パトリス・ルコント作品を多く手がけている人だった。なるほどねぇ…と納得してしまった。
グリートのスカーレット・ヨハンソンはこの作品を撮影した時、確か19才。イギリスのベテラン俳優コリン・ファースが霞んで見えたよ…。

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「世界の中心で、愛をさけぶ」 2004年,日本

監督;行定勲
出演;大沢たかお、柴咲コウ、長澤まさみ、森山未來、山崎努
2004年7月27日 池袋テアトル・シネマ 

朔太郎の婚約者、律子が置き手紙を残して、家を出て行った。居場所を突き止めた朔太郎は律子の後を追う。そこは朔太郎の郷里・四国であり、初恋の相手、亜紀との思い出が眠る場所だった。
純愛とそれを阻む難病。使い古されたプロットでありながら、キラキラした新鮮さを感じさせるのは、朔太郎の回想という手法を取ったからだと思う。原作にはない大人の朔太郎のシーンは不必要という評価も多いようだが、高校生の2人だけで完結していたら、私は、多分、青臭くてまともに見られなかったと思う。しかし、それを回想として見るから、アキになかなか近づけない不器用さも、オーストラリアに行こうとする無謀さも、空港でさけぶことしかできなかった必死さも愛おしく感じるし、自分にはもうないその「若さ」がまばゆく見える。映像も、サクとアキのシーンは真夏のきらめく光で撮影され、そしてアキの病気の進行にともなって台風が近づいてきて、どんよりする。現在の朔太郎も台風のなか。サクとアキの若さが映像によって、さらに輝きを増す。
個人的には、感傷的に描かれる「死」はどこか軽薄に感じてしまう。でも、この作品では、重じぃの存在が「死」に重みを与えていたと思う。愛する人の喪失にずっと耐えてきた重じぃの、厳しい言葉の一つ一つが、感傷的な流れにぐいっと重い杭を打ち込むような効果を持ったと思う。山崎努の渋い演技も良かった。
サクと同世代の私は、ウォークマン、赤いダブルカセットのテープレコーダー、深夜放送、ごついスクーターなど懐かしい80年代アイテムに、あぁ〜、あの頃から随分、遠くまで来ちゃったなと、ちょっぴり感慨にふけった。小ネタに使われていた『智恵子抄』は高村光太郎の詩集。これも愛する女性を失った悲しみを延々と綴った純愛詩集だったなと…、今頃、気付く(汗)。

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「月曜日に乾杯!」 2002年,フランス=イタリア

監督;オタール・イオセリアーニ 
出演;ジャック・ビドゥ、アンヌ・クラフツ・タラナフスキー
2004年7月21日 シネ・アミューズ

フランスの田舎に住むヴァンサン。毎朝早く工場へ行き、家に帰っても子供たちに相手にされず、妻からは雑用を言いつけられ、好きな絵を描くことすらままならない。ある月曜の朝、工場をサボって、単調な日常に別れを告げるようにヴェニスへ旅立つ。
前半は、田舎の退屈な日常生活がゆったりと綴られる。毎日同じことの繰り返しのヴァンサン、夫婦ケンカが絶えないご近所、教会に下手な壁画を描く息子と、すれ違いの会話ばかりしているガールフレンド…。他人の生活を覗き見る牧師、郵便物を盗み読みする郵便配達などは、何も起こらない退屈な日常の極みだと思う。ヴァンサンはそんな日々から脱出して、ヴェニスでスケッチしたり、歌と酒に楽しむ人たちにちょっぴり感激する。ほんわかした雰囲気に騙されそうになるが、この映画は決して甘くない。朝がくれば、ヴェニスの人々も朝早く工場へ行く生活がある。ヴァンサンは、結局、何処へ行こうが、そこには変らない現実があることを知るのだ。
しかし、ヴァンサンがいない間も、田舎の日常は何一つ変らないようで、同じではない。ヴァンサンの帰宅とともに、前半の退屈な日常のエピソードのちょっとした変化がリレーのようにつながって、描かれる。そして、私たちはヴァンサンとともに、平凡な日々からは逃れようもないけれど、そこにささやかな幸せもあることに気付かされる。
長回しで、ゆっくりと流れるように移動させるカメラワーク、少ないセリフ。田舎の退屈な日常風景とよく馴染むが、観客まで退屈にさせないのは、監督の細部にこだわるユーモアセンスが光るからだろう。思わず、クスッと笑ってしまう。私はイオセリアーニ自身が演じる、見栄っ張りで、うさんくさい侯爵に、うぷぷ(^・^)。

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「バーバー」 2001年,アメリカ

監督;ジョエル・コーエン
出演;ビリー・ボブ・ソートン、フランシス・マクドーマンド
2004年7月20日 DVD・自宅ごろ寝シアター

本作は、コーエン兄弟初の全篇モノクロ映像。兄のジョエルが監督、弟のイーサンが演出・制作、脚本は共同という役割分担。彼らの脚本、映像美は高い評価を得ている。作品は犯罪ものとコメディに大きく分けられるが、犯罪ものの方が、断然、良い(時々どぎついシーンがあるので、積極的にはお薦めしないが)。コーエンは犯罪を「人間の愚かさ」という視点からアイロニカルに描き出す。
本作の舞台は1949年の北カリフォルニア。無口な男、エド・クレインは、義弟の理髪店で働いている。ある日、客からドライ・クリーニングへの出資を持ちかけられ、金を作るために、妻の不倫相手を恐喝するが…。
エドは自分の人生にも、他人の人生にも無関心に生きてきたことを後悔している。彼が人生を"ドライ・クリーニング"しようとして、自らはじめて行動を起こす。しかし、その瞬間から、人生はエドの手からすりぬけて、何もかもが思いも寄らぬ方向へ動いていく皮肉。エドが迷路に迷いこむほど、人生は意のままに操りきれなくなり、静かに破滅に向かっていく。原題は"The Man Who wasn't There"。犯行現場にいなかったという意味だと思うが、この世に存在しなかった男という意味もあるのではないかと思う。無口で、他人からは、いてもいなくてもよかった男、何一つ自分の人生を思いのままにできなかった男。
脚本、映像のセンスはやっぱり凄い。クセのある登場人物、突拍子もなく飛躍するイメージ、モノクロ映像、非論理的な夢の世界のように進行するが、エドが転落していく過程は実に論理的に導かれている(真実ではないにせよ)。この辺がコーエン・マジックと評価される理由だろう。映像は綺麗なだけではなくて、意味深である。夜、エドの顔を覆う揺れる木の枝の影や、ゆっくりと空中を飛ぶ自動車、転がっていくホイールは、人生の転落を示唆するし、ラストシーンの真っ白な部屋はエドの人生最後のドライ・クリーニングをイメージさせる。
主役のビリー・ボブ・ソートンは寡黙で無表情でありながら、内面は複雑な男の佇まいを醸し出し、妻役フランシス・マクドーマンド(同監督『ファーゴ』でアカデミー賞主演女優賞)は上昇志向が強い女を余裕で演じていた。注目したいのは、女子高生役バーディのスカーレット・ヨハンソン。脇役だが、エドと観客を惑わすのに充分な存在感があった。

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「シルミド」 2003年,韓国

監督;カン・ウソク
出演;ソル・ギョング、アン・ソンギ、チョン・ジョエン
2004年7月9日 渋谷東映

1968年北朝鮮特殊部隊による大統領府襲撃事件をきっかけに、死刑囚など30人が実尾島(シルミド)に集められ、金日成暗殺を目的とした684特殊部隊が秘密裏に結成された。彼らは死と隣り合わせの過酷な訓練を3年も重ね、精鋭部隊に成長する。しかし、決行直前、国家は南北宥和へ大きく転換し、彼らは国家にとって邪魔な存在になった。
実際の事件を基にしているが、監督の創作もかなり入っており、事実に反する面もあるようだ。私も素材が素材だけに、感動をやたら盛上げようとする小細工にはちょっと戸惑った。特に後半は、自ら育てた訓練兵の抹殺を迫られる指導兵の苦悩、存在意義を奪われ、指導兵に銃を向けざるを得なかった訓練兵たちの無念が、重く熱いトーンで描かれ、涙を誘う。演出にやや稚拙さを感じるが、主役のソル・ギョングはじめ、俳優達の高い演技力に救われて、見応えある感動大作に仕上がっていると思う。
とはいえ、告発映画としての力も失われていない。監督は"684特殊部隊の訓練兵達が存在した証"を残し、それを通して軍事独裁政権の非道を伝えたかったのだと思う。侵略者・北朝鮮に対する敵意と、一方で祖国統一への望みを繋いだ宥和政策。軍事独裁の下、一握りの権力者の決定で政治が極端から極端へ動き、それに逆らうことは許されない。都合が悪くなれば、なかったことにする。684特殊部隊訓練兵は、国家により戸籍も抹消され、生きて存在したことすら認められなかった。後半には訓練兵の「名前」を印象づける演出がなされ、ラストに近づくほど訓練兵の一人一人の存在、彼らの国家権力に対する憤りが、力強く伝わってくる。
今更だけれど、南北問題に払われた犠牲の大きさ、北朝鮮に対してしこりを抱えながら、宥和・統一を目指す韓国政治の舵取りの難しさを、改めて感じた。

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「ラスト サムライ」 2003年,アメリカ

監督;エドワード・ズウィック
出演;トム・クルーズ、渡辺謙、真田広之、小雪
2004年7月3日 シネマクラブ上映会 

史実から判断して明らかにおかしい点や、ご都合主義がてんこ盛りだが、歴史ファンタジーと割切るなら、外国人が撮った日本時代劇としては、まともな方だと思う。
1887年(明治10年、士族最後の反乱が起こった西南戦争の年)。南北戦争の英雄オールグレンは、近代的軍隊の指導者として日本に招かれる。彼は、維新政府に抵抗する武士勝元と敵として出会うが、自分に厳しく、誇り高く生きる武士に惹かれていく。
この作品が描く「武士道スピリッツ」に共感できるかどうかで、作品の評価が分かれると思う。私は武士の高いモラルは立派だと思ったが、「敗北より名誉ある死」「命より自らの誇り」を強調しすぎるところに、やや辟易した。確かに、勝元の死は、判官贔屓の日本人にはじ〜んと来てしまう。しかし、「名誉ある死」が、日本の近現代の戦争を精神面から支えてきたことが頭にチラつき、勝元の死をカッコイイと思ってはいけないと、どこかでブレーキがかかる。官軍の土下座や最後の天皇とオールグレンのやり取りも、「名誉ある死」を賛美する行き過ぎた演出のように見えてしまい、冷めてしまった。この作品は、「武士道スピリッツ」を単純に何か崇高なもの、神秘的なものに思える外国人だからこそ撮れたのではないかと思う。日本人が撮るにはしがらみが多すぎて、難しい。
映像は美しく、印象に残るシーンがいくつかあった。霧の中に、鎧兜の武士の影が静かに浮かび上がってくるシーンにはゾクっとしたし、黒沢映画を彷彿させる合戦シーンも迫力があった。"たか"がオールグレンの戦支度をするシーンは、無言と、慎み深い抑えられた仕草のなかに二人だけの濃密な時間、繊細な感情が表現されていて、とても良いラブシーンだなぁと思う。
エンドクレジットで、大村役が原田真人だったことにびっくりした。映画監督であり、あのキューブリック『フルメタルジャケット』に字幕を付けた人。

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