「ペッピーノの百歩」  2000年,イタリア

監督;マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ
出演;ルイジ・ロ・カショーロ,ルイジ・マリア・ブッルアーノ
2004年6月29日 ユーロスペース

実話の映画化。マフィアのターノが支配するシチリアの小さな町チニシ。ペッピーノは子供の頃、マフィアのボスだった叔父がターノに殺された事からマフィア支配に疑問を持ちはじめる。世界中の若者達が既存の伝統的価値観に反抗した70年代。青年になったペッピーノにとって壊すべき伝統は"マフィア"。仲間とともに新聞を配り、小さなラジオ局を開設し、過激な言葉だけを武器に、マフィアを痛烈に批判した。
ラストを除くと、マフィア支配が直接的には描かれず、ペッピーノの運動だけに焦点が絞られている。つまり、対立する勢力の一方側に重点が置かれている。そのため、なぜペッピーノがマフィアに対して、過激な抵抗運動を展開するのかが、分りにくい。単に「正義感」だけを強調されると、彼の思想や運動が青臭いものにしか見えないのだ。そのため、途中まではペッピーノよりも、むしろ彼の運動に苦しむ家族の方に同情してしまう。父もマフィアであり、ターノから恩恵も受けてきた。自分の家から反乱分子が出てしまう悲しさ。父親がターノに圧力を掛けられながら、息子を守るために奔走して憔悴しきっていく姿は、見ていて辛い。
しかし、ラストでペッピーノの死に関連して、マフィアの卑劣さ、それに癒着する警察や政治家の権力構造が浮かび上がってくる。彼の憤りや、命がけで抵抗運動を展開した理由、そして、運動が決して無駄ではなかったことが、ようやく見えてきて、胸が熱くなった。
イタリア映画は『ニュー・シネマ・パラダイス』以降、涙誘う感動作が多くなった。そんな潮流のなかで、ネオ・リアリスモと言われた問題意識の強い社会派映画の伝統が残っていることに、ちょっと驚いた。映画のなかでパゾリーニの詩が引用されている。イタリアの左翼青年たちに支持されていたのかな>パゾリーニ。

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「みなさん、さようなら」 2003年,カナダ=フランス

監督;ドゥニ・アルカン 
出演;レミ・ジラール,ステファン・ルソー,マリー=ジョゼ・クローズ 
2004年6月15日 シネスイッチ銀座

レミは重病で余命が僅か。酒と女を愛した社会主義者で、大学教授。レミに反発して育った息子セバスチャンは、有能な証券ディーラー。父の病を聞いて渋々帰ってくるが、愛する母の願いを断れず、父の最期を演出する。
セバスチャンは、病院の幹部を買収してフロアを貸し切り、父の友人と愛人を呼びよせ、痛みを和らげるためにヘロイン中毒のナタリーを雇ってヘロインまで調達する。すべて父のためではあるが、愛情ではなく、金の力にものを言わせ、ひたすら事務的に実現していくところが皮肉。
レミは言う「死ぬ意味が分らない」。レミは仕事で成功したとは言い難く、後悔だらけの人生だった。しかし、レミは「死ぬ意味」を見つけたと思う。だからこそ、最期の決断をしたのだ。外国からでも飛んでくる友人たち、愛人も受け入れる寛大な妻、自分のために手を尽くしてくれるセバスチャン、太平洋のヨットから涙のメッセージを送ってくれる娘、自分と付き合うことでヤク中から抜け出す決心をしたナタリー。著作1本すら残せなかったにせよ、そこに自分が人生で築いてきたものを見いだしたのだろう。そして、「資本主義の申し子」セバスチャンも、そんな父を側で見ていて、父の生き方を知ったのだと思う。それは父と正反対の道を歩み、成功してきたと自負してきた自分自身の人生に対する疑問をも生む。「お前の息子は、お前のように育てろ」。父の最期の言葉をどんな思いで聞いたのだろう。
この作品には、現代医療に対する批判でもある。死を宣告された患者にとって、痛みと闘い、病院のベッドで最期を迎えるのは本当に望ましいのか?。レミのような最期が良いのか、悪いのか、今の私には判断できない。しかし、レミは最高に幸せな死に方をしたと思う。それは彼の最後のビジョンを見れば、充分だ。
レミと友人が交わす知的ジョークの連発についていくのにちょっと疲れたが、それ以外はとても良かった。『たそがれ清兵衛』を抑えて、2004年アカデミー賞外国映画賞受賞。清兵衛も悪くはないが、私も『みなさん、さようなら』に1票だな。

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「ひまわり」 1970年,イタリア

監督;ヴィットリオ・デシーカ
出演;ソフィア・ローレン,マルチェロ・マストレアンニ 
2004年6月12日 シネマクラブ第22回上映会

何度か観ているけど、観るたびに感動が増す映画だなぁと思う。
この映画は、つねに対照的なものを配置することで、表現する対象をより際立たせる効果を狙っているように思う。例えば、ジョバンナとアントーニオの出会いは、軽い。出会って間もないようなのに、休暇目当てに結婚を決め、徴兵逃れのために精神病を装う。2人は後先考えずに行動している。だから、ジョバンナの一途さがチラッと伺えるセリフやシーンがあっても、数日間の結婚生活でロシア戦線に行ってしまった夫を、何年も待つような女には見えないのだ。それだけに、彼女の待ち疲れてやつれた姿を見るだけで、そんなに一途だったのかという切ない思いがこみ上げてくる。
ロシア人の妻とジョバンナが対照的なのも、ジョバンナをとても惨めに見せる。独り、年をとって疲れきったジョバンナ。ロシア人の妻は彼女が失ったものを持っている。若さ、美しさ、結婚、子供…。強そうに見えた女が思いっきり泣き崩れる。異国の人たちに囲まれて。彼女の深い絶望や孤独感が伝わってくる。しかし、一方で、ロシア人の妻も、ジョバンナに接する態度を見ていると、幸せが壊れる日がくるかもしれないと不安だったことが分る。ジョバンナとは逆に、弱々しい女が不安を隠して「私は家で待っています」と強さを見せた時、彼女の覚悟がとても痛々しく感じる。
そして、印象的なひまわり畑。戦場に咲いたひまわり。ひまわりがのどかで美しいほど、より一層、戦争の悲惨さや虚しさが胸に迫ってくる。ひまわり畑や延々と続く十字架の下には、一体、何人の兵士が埋まっていて、ジョバンナのような女が何人いたんだろう。ひまわり畑をさまようジョバンナを見た時、彼女はたくさんの悲劇のひとりに過ぎないんだなぁと思った。

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「列車に乗った男」  2002年,フランス=ドイツ=イギリス=スイス

監督;パトリス・ルコント
出演;ジャン・ロシフォール,ジョニー・アリディ 
2004年6月11日 Bunkamuraル・シネマ

私はこの映画、とても好きだ。ルコント=恋愛映画というイメージが強かったけど、これは男くさくて、渋くて、でも美しい。
田舎町に列車で降り立った中年男ミラン。まともな暮らしをしたことがない流れ者。彼は老紳士マネスキエと出会い、3日間だけ屋敷に泊めてもらうことになる。マネスキエは元国語教師。穏やかな生活だが、単調で孤独な日々。正反対の人生を送ってきた二人。老いと死が見えはじめた時、マネスキエはミランを通して、ミランはマネスキエを通して、叶えられなかったもう一つの人生に思いをはせる。
映画のなかで詩が引用されるが、映画そのものも「詩」のようだと思う。物語を語る小説ではなくて「詩」。一つのセリフ、一つのカットが、静かに、沁みるように、心を浸していき、いつまでも余韻が残る。ミランの人生は青みがかった映像で、ギターを強く弾いた渋い音楽。マネスキエの人生は、暖かい光のベールを通したようなちょっとざらついた映像で、ピアノの穏やかな調べ。ミランが列車に乗って町にやってきて、ミランとマネスキエそれぞれの世界がまるで詩の一連のように交錯し、マネスキエが列車で去っていく。構成も、定型詩のように無駄がなく、様式的な美しさがあると思った。特に、ラストのカットバックの使い方は見事。
人生の終わりに、もっと別な人生があったかもしれないと後悔する。今までの人生の延長に既にレールが敷かれていて、第2の人生などという奇跡は起きない悲しさ。でも、ほんの少し気持ちだけはレールから脱線して、そろりそろりと、あったかもしれない別の人生の小さな幸せをかみしめる。ちょっと可笑しくて、切ない。ラストは含みがあって、どう解釈するかは人それぞれだろう。私は、彼らが終わりに見た夢だと思いたい。

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