「情婦」  1957年 アメリカ

監督;ビリー・ワイルダー
出演;タイロン・パワー、マレーネ・デートリヒ、チャールズ・ロートン 
2004年5月31日 DVD・自宅ごろ寝シアター

法廷サスペンス。金持ちの未亡人フレンチ殺害事件で、容疑者となったレナード。彼は病み上がりの敏腕弁護士ウィルフリッド卿に弁護を依頼する。彼には不利な状況証拠ばかり。アリバイを証明できるのは妻のクリスチーネだけだが、妻の証言だけでは信憑性が得られない。しかし、公判当日、妻はなんと検察側の証人として出廷してきた。
原作はアガサ・クリスティ『検察側の証人』。私は読んでいない。原作の面白さもあると思うが、配役、役者の演技、演出、小ネタ…どこをとっても、非の打ち所がない。原作を知っていても、繰り返し観ても、楽しめると思う。
まず、法廷でのやり取りにスリルがある。病を押して、不利な証言と一つ一つ戦う弁護士。ハラハラする。次に、どんでん返しに感動。どんでん返しが見事な映画はたくさんあるが、『情婦』が他作品と一線を画しているのは、なぜ、そういうどんでん返しが仕組まれたか、その背後にある人間の本性も徹底的に見せつけていることだと思う。ネタだけで観客を引きつけているわけではない。そして、人物のキャラクターに魅力がある。病み上がりと言いつつも、難しい殺人事件と聞くと片眼鏡の奥にある目が光ってくる弁護士、何を考えているか全く読めないクリスチーネなど主役級はもちろんだが、おしゃべり看護婦、フレンチ家の使用人など脇役がとても良い味を出していると思う。どよ〜んと暗い殺人の裁判に、コミカルな人物を入れて、観客を笑わせ、最後にどこか救われた気持ちにまでさせる。
クリスチーネ役のマレーネ・ディートリヒ。調べたら、彼女は1901年生まれ。へっ?てことは、この映画に出たとき56才ぐらいだってこと?。ほえ〜信じられない。あの美しいおみ足…。
映画の最後に「結末については秘密をお守りください」というテロップが出るので、秘密は守ったつもりだけれど。この映画に関しては、本当はもっと語りたいなぁ。

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「上海家族」 2002年 中国

監督;ポン・シャオレン
出演;リュイ・リーピン、チョウ・ウェンチン、チェン・チャンヤオ
2004年5月28日  岩波ホール

阿霞は15歳。父には愛人がいて、家族に冷淡。母は耐え切れずに離婚し、実家へ戻る。しかし、祖母は離婚を責め、「いつまでも置いてやれない」と冷たい。仕方なく、母は住む家と阿霞のために再婚する。しかし、母子はお金のことに異常に細かい夫と折り合いが悪く、再び、離婚。彼女たちは、実家にも居場所がなかった。
この作品には大きなテーマが2つあると思う。ひとつは女性の自立。女性は経済的に自立するのが難しいため、浮気にも目を瞑り、好きでもない男と再婚せざるを得ない。男も女が簡単に離婚できないことを知っているから、奴隷として耐える女は都合が良い。この母子は、貧しくとも2人で生活することを選ぶが、現実にはそれが出来ない人の方が多いはずである。家庭に止まる以外に、女にはなぜ選択肢がないのか。
二つ目は、祖母−母−娘の三世代の親子の絆。子供のために良かれと思うことが、世代間の考えの違いから軋轢も生む。しかし、親子の深い愛情は変わりない。その心情や葛藤の描写が、決して凝ったセリフや演出をしているわけではないが、とても上手いと思う。親不孝者の私は涙が出た。特に印象に残ったのが祖母。娘を不憫に思いながらも、結婚に耐えろと言うことしかできない辛さ、母の気持ちを分ろうとしない孫の阿霞をたしなめる厳しさ。誤解もされるが、筋の曲がったことは決して言わない。存在に重みがある。
センスの良さ・目新しさを狙うとか、意味深なセリフとか、そういう変な作意が全くない。その分、非常にストレートに監督の思いが伝わってくる。誰でも素直に感動できると思う。最近は少ないけど、こういう素朴な映画、私は好きだなぁ。先日観た『オール・アバウト・マイ・マザー』も女性の生き方がテーマだった。そこではゲイやレズ、エイズ、最先端の性の問題を扱っている。こういう問題も重要だと思う。でも、保守的と言われるかもしれないが、私は『上海家族』のように、地味だけど、地に足をつけて生きている女性の生き方に共感する。(ゲイやレズを受け入れられないというわけでは決してないです、念のため。)

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「オール・アバウト・マイ・マザー」 1999年 スペイン

監督;ペドロ・アルモドバル
出演;セシリア・ロス、マリサ・バレデス、ペネロペ・クルス
2004年5月27日  DVD・自宅ごろ寝シアター

マヌエラは16歳の息子エステバンと二人暮らし。エステバンは、父親のことを全く知らず「人生の半分が欠けている」と感じていた。マヌエラは、エステバンの17歳の誕生日に父親のことを話すことを約束したが、その夜、彼は事故死してしまう。マヌエラは、息子の思いを伝えるため、元夫を捜しにバルセロナへ旅立つ。
マヌエラは息子が亡くなるまで、辛い過去から逃避してきた。それは息子に真実を話せなかったという大きな悔いを残すことになる。「人生の半分が欠けている」のは、過去から逃げている彼女自身のことでもある。彼女はバルセロナで、夫の旧友で女装ゲイのアグラード、息子の事故のきっかけをつくったレズビアンの女優ウマ、HIV感染者で元夫の子供を妊娠しているロサと出会う。彼女たちとの出会いは、マヌエラを否応なしに元夫や亡くした息子=過去と向き合わせる。
監督のメッセージ「女であるために女を演じるすべての女たちへ」。登場人物たちは、それぞれに重い問題を持っている。でも、アグラードは女になる努力をすることで、ウマはいろんな女を舞台で演じることで、ロサは母親になる決意が、マヌエラはロサと元夫が残した子供の母親役になることで、つまり、女や母親に必死になりきることが、彼女たちに、問題を乗り越えていく強さを与えているように思う。
女たちが前向きで強くて、友情も爽やかで、映像もスペインらしく色彩鮮やか。確かに面白かった。でも、やっぱり男が求める女・母親の理想像(寛容で、優しく、そして強い)という印象が拭えない。私は、マヌエラのように自分の不幸に関与した女たちを、受け入れられるほど心が広くない。女は、そこまで寛容かなぁ…という気持ちがあって、イマイチ、のめり込むことができなかった。これは作品の評価ではなく、個人的な考え方の問題だけど。

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「フルスタリョフ、車を!」 1998年 ロシア

監督;アレクセイ・ゲルマン
出演;ユーリ・アレクセイヴィチ・ツリロ
2004年5月25日  アテネ・フランセ文化センター

… … (-"-;)  ? 分らん…。久しぶりに観たぞ、こんな訳の分らない映画。
1935年、反ユダヤ主義が色濃い時代のソ連。ユーリは大病院に勤務する脳外科医で、赤軍の将軍でもある。裕福な生活を送り、大家族の長であり、愛人もいる。しかし、ある日、スターリンが企てたユダヤ人粛清のためのでっち上げ事件、ユダヤ人医師陰謀事件に巻き込まれてしまう。怪しいスウェーデンの記者が彼につきまとったり、病院のなかに彼の替え玉が隠されていたり…、危険を感じた彼は逃亡する。KGBに逮捕されて拷問を受けるが、突然、解放される。スターリンの側近ベリヤが、瀕死の状態にあるスターリンを診察させるために、有能な医師の彼を解放したのだ。しかし、スターリンを救う手だてはもうなかった。
雑然とした画面、繋がりがよく分らないシーン、脈絡のないセリフがポンポン飛び出す。国家の事件とは全く関わりない、些末な、断片的な日常が次から次へと出てきて、それらのバラバラのカットやセリフを頭のなかで必死に継ぎ接ぎし、後半になって、何となく話が見えてきた…。国家の陰謀が動いていながら、それに深く関わる人さえ、陰謀とはお構いなしに、些細なことでケンカし、わめき散らし、セックスする。社会主義国家とは正反対の無政府状態。本能的、感情的で、猥雑な人々。スターリンも臨終は汚物まみれ。死ぬ間際まで、陰謀事件を練っていたスターリンが滑稽に思えてくる。国家なんか屁にも思わない人たちの狂気じみた日常を見せつけることで、社会主義を皮肉っているのだろうか(自信がない)。作風は違うけれど、『アンダーグラウンド』(C-review)と同じ匂いがした。
映像はモノクロ。モノクロの静謐なイメージとはほど遠く、人やモノや車や…いろんなものが散らかり、そこに後から後から雪が降ってくる。インパクトがあり、引きつけられた。感想を一言で言うと、何が何だか分かんなかったけど、異常にテンションが高くて、凄い映画。

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「座頭市」 2003年 日本

監督;北野武
出演;北野武、浅野忠信
2004年5月8日  第21回シネマクラブ上映会

タップをしたり、小ネタギャグをいれたり…。観客を楽しませようとする監督のサービス精神は感じた。娯楽としてなら、そこそこ観られる。
とにかく斬る、斬る、斬る、斬って斬って、斬りまくる。思わず目を覆ったり、うっ。と声を上げてしまう。おそらく、監督はそれを狙ったのだと思うから、殺陣の見せ場は成功かもしれない。ただ、好みの問題だけど、私は娯楽作品だろうと、大した意味もなく人を殺すのは嫌いだ。人が死ねば、それだけで確実に見せ場になる。だからこそ安易に使うのはどうかと思う。殺されても仕方ない人物もいたが、あとは場を盛り上げるためだけの殺人。
気になったのは、カット割とシーンの繋ぎ方。前に初期の作品を観た時、素人のような単調なカット割、ぎこちないシーンの繋ぎ方、加えて、北野武の自意識過剰の演技が鼻について、最後まで観るに耐えられなかった。今回、出だしはメリハリがあって、バラバラなカットが謎めいた感じでスムーズに流れる。前より上手くなったなと思ったけど、やっぱりすぐに気になりだした。特に、回想シーンが繰り返されるあたり、なんでこのシーンに飛ぶわけ?と、思う箇所が結構あった。画面の構図も、相変わらず荒い。踊っている人の立ち姿を足首のところで画面から切っちゃったり、バランスが悪さが目立つ。監督やるなら、作品にこだわる前に、基本的なテクニックをしっかり勉強してください、と言いたくなる。
タップ、金髪。時代劇に斬新さを取り入れようとした試みは分る。でも、姉弟のエピソード、いじめられる農民、それを助ける超人的ヒーロー、影のある敵役。時代劇でよく使われる勧善懲悪の基本形で、新しさは全くない。回想をふんだんに入れた割には、人物が薄っぺら。主人公だけおいしいところを持っていく。悪者に憤るような怒りも沸かないし、弱者にも感情移入できないので、悪者が退治されて、ラストをあれだけ盛り上げても、勧善懲悪の醍醐味であるカタルシスも感じられない。
殺陣、腹切り、女形…エキゾチックなところが外国の人にはウケるのかな。私にはヴェネチアもレベルが落ちたなとしか、思えませんけど。

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「IN AMERICA−三つの小さな願い事」 2002年 アイルランド=イギリス

監督;ジェム・シェリダン
出演;サマンサ・モートン、パディ・コンシダン
2004年5月7日  飯田橋ギンレイホール

アイルランドから不法入国でニューヨークに移住してきた家族。失業中の俳優の父ジョニー、母サラ、幼い娘のクリスティとアリエル。ヤク中患者が住み着くボロアパートで新しい生活をはじめる。ジョニーとサラは1年前に亡くした息子フランキーのことを忘れられず、苦しんでいた。しかし、同じアパートのマテオとの出会いが、奇跡をもたらす。
この映画は、長女クリスティにつきる。私から見ても両親が、大人になりきれていない。でも、親が幼いと子供は大人になる。クリスティには泣かされた。あの「デスペラード」は両親に向けて歌っていた。「私が家族を支えてきたの!」。彼女の言葉は、父が過去と決別するきっかけになる。親が亡くなった子供の方を向いていることは、生きている子供には辛いこと思う。でも、彼女は親の苦しみをそっと見つめ、彼らのために願い事をし、妹を抱きしめる。最後の願いは、もしかしたら最初からクリスティのなかにあったのかもしれない、でも、両親や幼くして死んだフランキーがかわいそうだと思っているから、「願ってはいけない」と自分に言い聞かせていたのではないだろうか。
クリスティがいつも持っているビデオカメラは、過去の象徴。そこに写されるのは、苦しみも辛さもありのままの事実だ。それを抱えたままだと前へは進めない。それを捨てて、心の記憶になれば、優しさだけが残る。
問題を奇跡で解決するのは、実は、あまり好きではない。でも、この作品に関しては、奇跡を起こすマテオが最初から神秘的な存在として描かれており、無理なくラストが導かれてるかなと思った。移民、差別、生と死、家族の絆。重いテーマをこれだけ盛り込んでも、あんまり重苦しさを感じさせずに、でも感動的に上手くまとめていると思う。
母親役のサマンサ・モートンは、ウディ・アレン『ギター弾きの恋』ではじめて見て、可愛らしい人だなぁと思った。今回は、すっかり貫禄ある女優になっていたけど、娘役2人に負けちゃったかな。

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