「大列車作戦」 1964年 アメリカ=フランス=イタリア

監督;ジョン・フランケンハイマー
出演;バート・ランカスター,ジャンヌ・モロー
2006年4月 DVD自宅ごろ寝シアター 

ナチス占領下のパリ。ドイツ敗戦が色濃くなるなか、ナチスの大佐は美術館から名画を、列車でドイツに運び出そうとした。レジスタンス活動家たちは、これを阻止するため大胆な作戦に出る。
シネマクラブの友人から傑作であると聞いていた。いつか見ようと思いつつ、かれこれ2年ぐらい経って、ようやく鑑賞。もっと早く見ればよかったよー。作戦にええっ!と驚き、突然のジャンヌ・モロー登場にビックリし、どひゃっーそんなとこにカメラつけちゃうの!?とあっけにとられ…、最後まで、(良い意味で)驚きの連続だった。確かに傑作。この映画は、もっと広く知られても良い。
まず、ストーリーが面白い。列車はレールの上しか走れない。ドイツ軍が運行を厳しく監視するなかで、逃げ道がない列車のドイツ行をどうやって阻止するのか。その作戦には驚いたが、決して荒唐無稽な話ではない。大胆な発想でありながらリアリティが失われておらず、緻密に計画され、危険を犯しながら実行されていく過程は手に汗握る。
作戦が面白いだけなら、他の戦争娯楽ものと変わらない。しかし、この作品が深いのは、作戦に"価値観"というテーマが入るからだ。レジスタンス活動家は、絵画を見たことがなく、作者のルノワールすら知らない。その見たこともない絵を守るために、貴い人命が次々と犠牲になる。絵画と人間の命が天秤にかけられているのだ。他方、ドイツ軍の大佐は絵を愛し、真の価値を理解している。だからこそドイツに絵を持ち出そうとしている。何という矛盾!。
大佐が吐き捨てたように、レジスタンス活動家たちは、価値が分からないものを命を賭けた馬鹿げた人々だったのか。私は、少なくとも主人公のラビッシュには当てはまらないと思う。ラビッシュは犠牲になった人びとのために、どうしても、あきらめるわけにはいかなかったのだ。もし、絵画がドイツへ奪われたら、彼らの犠牲は無意味になってしまう。何のために死んだのかということになってしまう。ラビッシュにとっては、やはり命>絵画だったんだと思う。
映像とカメラワークも素晴しい。基本的にパン・フォーカス(ピントが深い)で長回しなので、映像がシャープ、迫力がある。この意図は、何となく以下のように想像している。走っている長ーい列車を撮影するのは難しいので、カット割りを細かくし、列車の細部の動きをつなげて"走っているように"編集する方法もある。しかし、実際に列車がひた走っている印象は弱くなり、迫力も出ない。列車の迫力を出すには、やはり、走っている列車の全体像を捉える方がいい。そうなると、1ショットは長くなる。列車は奥行きがあるからピントを深くし、カメラ位置も制約されるから、カメラワークは計算され、洗練された動きになる。
バート・ランカスターってホントに何でもできる俳優だなぁ。貴族から、アクションまで。今の俳優で言うとだれかなぁと考えてみたが、うーん…思いつかない。

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「ドイツ零年」 1948年 イタリア

監督;ロベルト・ロッセリーニ 
出演;エドムンド・ムシュケ,エルンスト・ピットシャウ,エーリッヒ・ギュネ
2006年4月 DVD自宅ごろ寝シアター 

敗戦直後のベルリン。少年エドモンドの一家は苦しい貧困生活を強いられていた。父は病気、兄はナチ党員であったために働けない。エドモンドは学校へも行かず、あらゆる手段でお金を稼ごうとするが、子供では無理がある。ある日、小学校時代の恩師に出会い、ナチの思想でもある弱肉強食、父親殺しを示唆される。
イタリア、ネオ・リアリスモを代表する監督。子供は一人では生きられない。だれかに養育してもらわなければならない存在だ。そのため、どんな大人達だろうと、どんな境遇だろうと、それを受け入れるしかない。弱い立場の子供ほど生きていくことに必死で、自分の立場の不当さに疑問も持たず、大人に従順になってしまう。稼いでこいと言われれば稼ぐしかないし、生きるために殺せと言われたら殺す。戦争と貧困によって精神的に荒廃する大人たち。その犠牲者になるのは、エドモンド=子供だ。
目が釘付けになったのは、父を殺した後のエドモンドである。これが"リアリスモ"なんだと思った。劇的な展開があるわけではない。フィルムは、家に帰れずに一晩中さまようエドモンドを延々と映しだすだけである。知らない子とサッカーしたり、女の子を訪ねて追い払われたり、廃墟でひとり戦争ごっこしたり…。彼はどんなに後悔しても、悲しんでも、取り返しが付かないことした。もう、どうしていいか分からないのだ。衝撃のラストまで、監督は彼に対する同情を徹底して廃している。感動とか、そんな生やさしいものじゃない。胸をえぐられるよう。
エドモンドの悲劇は、現在も続いている。数年前『アフガン零年』(監督セディク・バルマク)という映画が公開された。映画は未見だが、この映画の製作ドキュメンタリーを偶然テレビで見た。タリバン政権下で女性は外で働くことができなかった。戦争で男手を失った家庭は貧困に苦しみ、ついに母親は娘の髪を切り、男の子と偽って働かせる。しかし、男装していたことが明るみになり、少女はタリバンの裁判にかけられる。その罰には…言葉を失った。あまりにも非人道的で。監督によれば、それが"現実"だと言う。機会があったら、観たい映画だ。
最後に、『ドイツ零年』は敗戦後のベルリンを撮影した貴重なフィルムであることも付け足しておく。

『ドイツ零年』とフランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』
トリュフォーは『ドイツ零年』に影響を受けたと言う。彼の『大人は判ってくれない』を観ればよく分かる。大人たちに見捨てられた主人公アントワーヌ、一晩中パリの街をさまようシーン。『大人は判ってくれない』は、トリュフォーの自伝的要素が強い作品である。自分の少年時代と、エドモンドが重なりあったんだろうな。

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「スウィングガールズ」  2004年 日本

監督;谷口史靖
出演;上野樹里,平岡祐太,竹中直人,白井美帆,谷啓
2006年4月 DVD自宅ごろ寝シアター 

東北の田舎の高校。夏休み、補習授業を受けている女子高生たちが、サボりを口実にジャズバンドをはじめる。いい加減で、ヤル気のない高校生が、だんだんとバンドに本気になっていく。
面白いと思う。でも、どうしても前作『ウォーターボーイズ』と比べてしまう。私は前作の方が好きだ。全くのゼロから楽しさを知りつつ、困難を乗り越え、バンドやシンクロやり遂げるという基本線は変わってない。竹中直人の役どころも同じ。『ウォーターボーイズ』のような男子のシンクロナイズド・スイミング、実話といった意外性がなく、新しさもない。"二番煎じ"という印象がどうしても拭えなかった。
ただ、楽器を演奏する楽しさは、とてもよく伝わってくる。私も楽器経験ほとんどなし、おまけに音楽センスが乏しいのに、2年前にリコーダーをはじめた。まるで映画のなかの竹中直人のようで、他の人より上達は遅いと思う。でも、とにかく楽しい。ヤル気のなかった彼女たちが、だんだんと楽器に夢中に、真剣になっていくのは、分かるな〜。楽器にはそれだけの魅力がある。映画での演奏は吹き替えなし。短期間で、あんなに素晴しい演奏をした彼女たちに、ブラボ〜!。
山形米沢市が舞台らしいが…私は米沢に近い方言を持つところで育った。標準語の彼らが方言で芝居する難しさは分かるけど。あの方言は…全然なってない。山形出身の渡辺えり子以外は全くダメ。もうちょっと、なんとかならなかったのか。
この映画が好きだという人には、大林宣彦『青春でんでけでけでけ』もオススメ。

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「俺たちに明日はない」 1967年 アメリカ

監督;アーサー・ペン
出演;ウォーレン・ビーティ,フェイ・ダナウェイ,ジーン・ハックマン
2006年4月 第44回シネマクラブ上映会  

1930年、大恐慌下のアメリカ。実在した強盗"ボニー&クライド"を基に映画化。
出所したばかりのコソ泥のクライドと、ウェイトレスのボニー。将来への希望が見いだせない時代、やり場のない行き詰まり感を、反社会的だろうと、犯罪だろうと、後がどうなろうと、徹底して好き放題やるという形で爆発させた。それが60年代末から70年代、経済的にも軍事的にも凋落していくアメリカの世相と重なり合って、アメリカン・ニューシネマ(70年代、社会からドロップ・アウトした若者たちを描いた一連の作品)を切り開くエポック・メイキング的映画になったんだろうな。
前半は楽観的だ。ゲームするように強盗を楽しむ。私が、凄いと思うのは後半。彼らは次第に追いつめられるが、後悔はしない。他の選択肢がないとでもいうように、強盗を繰り返すだけである。前半の軽快さとは対照的に、悲愴感もただよってくる。
しかし、ここに、ちょっと異質な牧歌的なシーンが入り込む。一つは、ボニーが家族に会うシーン。ここだけ映像が、ざらついた黄色っぽい画面で、ロングショットが印象的に使われる。だんだんと遠くなっていく記憶という感じ。そしてもう一つ、ボニーとクライドが野原で幸せそうに戯れるシーン。二人とも、強盗を楽しんでいる時とは違う、穏やかな笑顔だ。この二つのシーンは、好き放題してきたことへの大きな代償や、絶対口には出せない彼らのあきらめ、そして最期の覚悟までも感じさせる。これらのシーンにより、彼らの最期が悲惨であればあるほど、そういう生き方しかできなかった彼らに対する切ない思いもどっと込み上げてくる。
アーサー・ペン監督の他の代表作として、意外かもしれないけど『奇跡の人』。ヘレン・ケラーの伝記映画である。私は、この映画を高校の映画鑑賞で観せられた。ひねくれ者の私は「けっ。そんな教育映画なんて…もっと面白い映画をやってくれよ」と思った。しかし、映画がはじまると、のめり込んだ。そして、偏見を持っていた自分をちょっと反省した。サリバン先生とヘレンのあの演技、ラストシーンで、ヘレンのたった一言に込められた意味の深さ。今でも忘れられない。
あまり関係ないけど…ボニーのファッションは格好いい。クラシックでクール。今年の秋冬に真似してみたいなぁ。

『俺たちに明日はない』とヌーヴェル・ヴァーグ(ちょっと長いです)
『俺たちに明日はない』、脚本のロバート・ベントンとデービッド・ニューマンは、健全なハリウッド映画に嫌気がさし、ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波、50年代〜60年代にフランスの若手監督を中心に起った映画運動)、ゴダール監督の『勝手にしやがれ』をイメージして、この脚本を書いたと言う。
そして、最初に、フランソワ・トリュフォーに監督を依頼した。ヌーヴェル・ヴァーグの監督に撮ってもらいたかったのか、反社会的・破滅的ストーリーは、当時のハリウッドでの映画化は難しいと考えたのか…。しかし、トリュフォーに断られ、さらに次に依頼したゴダールからも断れた。そして、ウォーレン・ビーティがトリュフォーから『俺たちに明日はない』の脚本のことを聞き、自らプロデューサーと主演を引受けて、アーサー・ペンに監督を依頼した。これが、アメリカン・ニュー・シネマの最初の作品となる。
こうした経緯を辿ったせいか、この作品にはヌーヴェル・ヴァーグを意識したところが、いくつかあるようにと思う。例えば、一番分かりやすいところでは、クライドとボニーの出会いのシーンは、ゴダールの『男と女のいる舗道』を思い起こさせる。ゴダールの『勝手にしやがれ』を意識したというだけあって、ゴダールへのオマージュかな…とも考えられる。
また、カット割りも、ロングから、凄いアップになったり、静かなカットから、突然、銃撃戦がはじまったり…。こうした緩急ある冒険的なカット割は、ヌーヴェル・ヴァーグが最初だと思う。ヌーヴェル・ヴァーグは、それまでのカット割りの法則を大胆に壊していった。今では、当り前になっちゃったけど。
そして、セリフ回し。ヌーヴェル・バーグ映画のセリフは、概して退屈だ。説明的セリフもない。なのでストーリーや、登場人物の心情を理解するには想像力がいる。ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、日常会話というのは実際、退屈なものだし、映画・演劇のような洒落た会話、説明的セリフは、現実には殆どないと考えたからである。『俺たちに明日はない』も、ハリウッド・ギャング映画のような、格好いい、キザなセリフは皆無である。日常会話の淡々とした積み重なりで物語が進行する。
私はトリュフォーのファンだけど、この作品がトリュフォーでなくて本当に良かったと思う。トリュフォーが撮っていたら失敗したと思う。トリュフォー監督自身、ハリウッドの犯罪・サスペンス映画の大ファンだったが(ヒッチコックについて分厚い本を書いているぐらい)、その割には、彼が監督した犯罪・サスペンス映画は、どうも冴えないのである…。唯一、面白いと思ったのは『日曜日が待ち遠しい』ぐらい。トリュフォーは恋愛映画にも、犯罪・サスペンス的なカット、カット割りを取入れることがよくあるが、これはすごくセンスが良くて、ピカッと光るんだな。ホントに不思議。

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