「旅芸人の記録」 1975年 ギリシャ

監督;テオ・アンゲロプロス
出演;エヴァ・コタマニドゥ、ペトロス・ザルカディス、ストラトス・パヒス
2006年12月28日 下高井戸シネマ

ギリシャ現代叙事詩と言われる作品。ギリシアは1939-52年の間に、イタリア侵攻→ドイツ侵攻→国民統一戦線の勝利→イギリスの干渉、右派政権と共産ゲリラ弾圧→右派軍事独裁政権と、他国の侵略と圧政がくり返された。この間のギリシアを、神話「エレクトラ」を下敷きにした旅芸人一座の物語とともに壮大に描きだす。
とにかく、凄い映画。約4時間。全編1シーン1カットの長回し。正直に言うと、観るのに忍耐力がいる(私はあやうく2回ほど意識を失いかけた…(・_・)( -.-)( _ _)…( ・o・)!)。しかし、一つ一つのシーン、カメラワーク、俳優の表情やセリフが強烈に印象に残り、見終わった後でもう一度観たいと思わせる。
この映画は、侵略・圧政により、旅芸人一座がどうなっていくかという、まさに"記録"だ。情勢が変わるたびに、一座の身内同士で密告したり、徴兵されたり、侵略者による処刑やレイプが行われたり、危ういところでゲリラに助けられたり。旅芸人一座は、色々な国に蹂躙されるギリシャ国民の縮図でもある。と同時に、1シーン1カットという固定カメラは、旅芸人が時代を回想する視線にも感じられ、時代を旅する芸人一座を狂言回しとしたギリシア侵略・圧政の"記録"を見るようでもある。カメラが対象から外れて、ゆっくり戻ると時代が変わっていたり、あるいは男たち軍歌を歌いながら道を歩いてくる間に時代が変わっていたり、1カットのなかで時代が行き来するという実験的手法を使っているが、時を経て、また同じ場所にやって来る旅芸人たちの感覚を表しているのかなと、私は思う。
注目すべき点は、旅芸人一座の物語に、ギリシャ神話、古典劇が据えられていることだ。侵略されようが、翻弄されようが、一座のなかでは、神話の時代から変らない家族の愛憎が繰り返され、古典劇「羊飼い少女ゴルフォ」だけを上演しつづける。そこに、だれが国を引っかき回そうと、ギリシャはギリシャという、国としてのアイデンティティ、強い抵抗のメッセージを感じとることができる。また、「羊飼い少女ゴルフォ」上演中に、いつも何らかの妨害が入って最後まで上演できないのであるが、これも、映画(芸術)が政治に干渉されることに対する監督の反発だろう。
最初と最後のカットの対比が、とてつもない余韻を残し、もう一度観たいという気持ちを強くする。まず、最初のカットは、1952年、エギオン駅に降り立った旅芸人一座をロングで捉える。そこから時代は、一座が39年にエギオンに来た時へ飛び、52年までの"記録"が、52年と行き来しながら展開する。そして、最後のカットは、最初と全く同じ構図で、1939年、エギオン駅に降り立った一座である。そこには、もういない人もいる。その人の人生がどうなったか、旅芸人一座が52年に再びこの駅に降り立つまでに、どんな道を旅をするのか、観客は知っているわけで、言葉にはできない感情がうねるように押し寄せてくる。(感動とか、そういう単純に言い表せる感情じゃない)

<これから観る人へチョットお節介。(^^ゞ>
難解な映画ではない。しかし、登場人物がたくさんいて、関係が複雑なのに、説明がないことが、話を分かりにくくする。人物関係は、話の展開から把握するしかないが、登場人物名前さえいつまでたっても出てこない。私が、役者の顔、役名、人物関係が何となく把握できたのは、映画もだいぶ進行してからだった…。これから見ようと思う方は、登場人物、それからギリシャ神話「エレクトラ」を予習しておくことをオススメする。
ギリシャ現代史は知っている方がいいけれど、映画を見ていればなんとなく分かる。私も全く予備知識なしで観たけど、そこは大丈夫だった。この感想の1〜2行目に書いた概略程度を把握しておけば、十分ついていける。

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「華麗なる賭け」 1968年 アメリカ

監督;ノーマン・ジュイソン 音楽;ミシェル・ルグラン
出演;スティーブ・マックィーン、フェイ・ダナウェイ
2006年12月?日 NHKBS録画自宅ごろ寝シアター

実業家で大富豪のトーマス。しかし、彼は銀行強盗という裏の顔を持っていた。彼の素性を調査する保険調査員ビッキーとの対決が、恋の駆引きへ。
話は荒唐無稽だけれど、展開に無理がなく、なかなか楽しい。分割画面を利用した映像表現、ビッキーのミニスカファッション、音楽はフレンチポップスのミシェル・ルグラン…。60年代の流行の先端を堪能できる、お洒落な映画。今見ると、レトロカッコイイ。
トーマスとビッキーの恋愛がどこまで本気で、どこまで相手を欺くための手段なのかがよく分からないところが、面白さの鍵。そういう2人の関係を象徴的に表現するのが、あの有名なチェスのシーンだ。ビッキーの誘惑、トーマスの微笑…男女の艶っぽいシーンのようで、追い追われる2人の駆引きがチェスで表現される。チェスではトーマスが不利だけれど、彼の策士っぷり、彼女より一枚上手なところを感じさせ、それがそのまんま2人の関係に置き換えられちゃうんだね。カメラワークも艶っぽい。手のアップ、2人の表情の切り返し、キスの瞬間クルクルクル〜と舞上がる。それはチョットやりすぎだろう…とは思ったけど(^_^;)。そういえば、最近、このシーンのパクリ?と思う作品があった>「デス・ノート」ライトとエルのチェスシーン。
ラストで、華麗なる賭けの意味が分かるというのが!。トーマスがビッキーの魅力にやられちゃったようで、実は…という"どんでん返し"なんだけど、手口が鮮やかでスマート。これは「スティング」のラストと並ぶんじゃないかと思う。
マックィーンが格好良すぎ。木綿シャツにジーンズ、ワイルドなイメージの彼だが、ダブルのスーツも素敵。頭がよくて、チョイ悪で、お酒片手に高笑いし、セスナを飛ばしたり、浜辺でバギーカーを走らせたり、もうビッキーじゃなくてもウットリ。私は「パピヨン」よりも「大脱走」よりも、このマックィーンが一番好きだな(邪道かもしれないけど)。

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「突然炎のごとく」 1961年 フランス

監督;フランソワ・トリュフォー
出演;ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、アンリ・セール
2006年12月?日 DVD自宅ごろ寝シアター

ひとりの男を愛せないカトリーヌ(J・モロー)と、彼女を愛したジュールとジム。原作はアン=ピエール・ロシェ「ジュールとジム」。
トリュフォー長編3作目。後の作品と比べると、完成度が高いとはいえない。私も1回の鑑賞ではよく分からなかったが、2回3回と見るたびに、人物像の奥深さ見えてきて、だんだんと惹かれていった。好きな作品である。
トリュフォーの恋愛映画は、恋愛が人生のすべて。人物は、一途にせよ、奔放にせよ、決して報われない、身を滅ぼす恋をする。恋愛=破滅だ。とはいえ、彼は陳腐な物語では語らない。人生の1断片を積み重ねるようにシーンを綴り、控えめで日常的なセリフとセリフの間から、男女の情感を匂い立たたせる。トリュフォーの恋愛映画は後期になるほど、執着、狂気が強くなっていく感じがするが、本作はやはり若い頃の作品だからか、内容のわりには爽やかな印象。
カトリーヌはたくさんの男を愛するけれど、男は自分だけを一途に愛してくれないと気がすまない。男が、自分の関心外の話題に熱中することすら許せない。そんな恋愛関係って続かないから、結局、彼女は寂しい人なんだな。
ジュールとジムも彼女を愛しているけれど、愛し方はだいぶ違う。ジュールは女性にフラれっぱなしで、ウブで、カトリーヌに出会うと彼女しか見えなくなる。カトリーヌが望むならジムと3人で暮らしても良いと思っている。どんな形であれ、カトリーヌを絶対に失いたくないからだ。一方、ジムは人並みに女性と交際し、ジュール以上にカトリーヌという女の本質を見抜いている。そして現実的。カトリーヌに惹かれつつも、「恋愛と結婚は別」「家庭には向かない女」であり、他の女と婚約する。
だから、カトリーヌは、最初は自分に一途なジュールに惹かれ、最期はジムを選んだのだ。一緒に逝くのはジムでなければいけない。もし、生き残るのがジムだったら、カトリーヌはそういう女だよなと分かっているから、他の女と一緒になるだろう。そして、ジュールには(死に様を)「よく見て」もらう。あれを見せられたジュールは、一生、カトリーヌを思いつづけるだろう。ジムとジュール、どっちがどっちでもいいわけじゃない。つまり、彼女が、愛した2人の男の人生を永遠に自分のものにするには、あの選択しかなかった。カトリーヌの性格からすれば、「突然」のきまぐれではなく、「自然」な成り行きだ。その"素敵な企て"に、カトリーヌは死を目の前にして笑顔がこぼれるのだ。彼女にとっては、死も、2人の関心を惹きつけるためにセーヌ川に飛び込んだりするのと、あまり変わらないのだろう(セーヌ川のシーンは分かりやすい伏線だなぁ)。
何と言っても、カトリーヌ役のジャンヌ・モローが魅力的。以前、ムッツリした女優と書いたが(「死刑台のエレベーター」)、トリュフォーは、彼女を笑い戯けさせる。カトリーヌがジュールとジムに、以前の私はこうよと言ってムッツリした顔を見せ、その後で今の私はこうよとニッコリと笑うシーンがある。それは、ジャンヌは笑っている方が魅力的なんだというトリュフォーの主張でもある(トリュフォーは「黒衣の花嫁」でジャンヌの魅力を引き出せずに失敗したといっているが、それは明るく生き生きした彼女の魅力を熟知していたからだろう)。ストーリーだけ考えると、カトリーヌはどう見てもファム・ファタールだ。でも、彼女の魅力がそう見えさせない。本当に不思議な女優だ。
「突然炎のごとく」という邦題は賛否両論がある。私は失敗だと思う。控えめな言葉を選ぶトリュフォーらしくないし、何より映画の内容を誤解させる。前述したが、あのラストは突然じゃなくて、自然だからだ。原題の「ジュールとジム」の方が、作品の本質をよく表現しているように思う。「突然炎のごとく」という言葉がインパクトありすぎて、チープなドラマとかレディスコミックタイトルに、今でもよくパクられているが、それはそれで頭にくる。
この作品以降、破滅的な恋愛を撮り続けたトリュフォーだが、唯一、幸せいっぱいの恋愛を描いた作品がある。遺作の「日曜日が待ち遠しい」だ。トリュフォーは主演のファニー・アルダンとの間に子供を授かっている。私生活でも恋愛遍歴で有名な彼だが、作品に影響を及ぼすほど彼女のとの出会いがとても幸福だったのかなと思う。トリュフォーの恋愛映画、彼自身の恋愛経験から生まれたセリフなどを考えると、彼にとっては映画と同じぐらい女性・恋愛が、人生の探求だったのだろう(私の勝手な想像だけど)。

ここから小ネタ。
ジャン=ピエール・ジュネ「アメリ」は、トリュフォーを意識している作品だ。アメリが映画館で古い映画を観るシーンがあるが、その映画が「突然炎のごとく」。またトリュフォー「逃げ去る恋」で、主人公のアントワーヌ青年が、破り捨てられていた写真をつなぎ合わせ、写真の女性に一目惚れ。彼は写真の女性を必死に探す。このエピソードは、アメリでも使われている。

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「黒衣の花嫁」 1968年 フランス

監督;フランソワ・トリュフォー
出演;ジャンヌ・モロー、ジャン=クロード・ブリアリ、ミシェル・ブーケ
2006年12月?日 NHKBS録画自宅ごろ寝シアター

女(ジャンヌ・モロー)は男たちを次々に誘惑し、殺していく。彼女の正体は?。コーネル・ウールリッチの同名小説の映画化。
トリュフォーは、アメリカのB級映画や、ギャング映画、サスペンス映画を愛した。それは、伝統的な文学的情緒的フランス映画の枠を打ち破り、新しい映画をつくろうとした野心の表われでもあったと思う。特に、この映画とか、「ピアニストを撃て」などもそうだけど、そうしたB級映画を愛した片鱗がよくあらわれていると思う。人生の悲喜劇、繊細に心の揺れなどにこだわるトリュフォーのスタイルに、そうしたB級映画的な雰囲気を被せた感じがする。
トリュフォーのサスペンスは謎やプロットより、サスペンス的状況にある人物の描写に関心が向けられる。この作品でも、ジャンヌ・モローが男を誘惑し、4+1人を殺していく過程をただ見せていくだけである。しかし、男と女の微妙な恋愛感情を表現するのが得意なトリュフォーの手にかかると、誘惑の手口は趣向が凝らされ(マンガ的で、ちょっと非現実的だけど)、ファム・ファタールと男たちの恋愛オムニパス映画を観ているようだ。そして、女が仕事のように淡々と殺していく演出は、女の目的、男の繋がりは何なんだ?という興味を抱かせ、謎が解明してからは女の恨みの深さを伝えるものになる。
一般的に、本作の評価は良くない、というか悪い。大体は、容色が衰えはじめたジャンヌ・モローのミスキャストを指摘する(山田宏一「フランソワ・トリュフォー映画読本」平凡社など)。トリュフォー自身も「思い出したくない映画です」と言ってるぐらいだ。そうかなぁ…そこまで言わなくても。ジャンヌ・モロー、チョット年を感じるけど、映画を台無しにするほどじゃないし。サスペンスとしての物語や謎は安っぽいのに、トリュフォーらしい男と女の駆引きや、人物描写で見せてしまう映画だと思うんだけどなぁ。トリュフォー作品のなかで、DVD化されていないのは「黒衣の花嫁」「緑色の部屋」の2本。NHKBSで、ようやくそのうちの1本を観ることができた。NHKさん、ありがと〜。
話は反れるけど、私はクエンティン・タランティーノ「キル・ビル」は、絶対に「黒衣の花嫁」をヒントにしたと思っていた。しかし、監督自身がそのことをインタビューで否定しているらしい。ふーん、そうなんだ。

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