「シェルブールの雨傘」 1963年 フランス

監督;ジャック・ドゥミ  音楽;ミシェル・ルグラン
出演;カトリーヌドヌーブ,ニーノ・カステルヌオーヴォ
2006年2月25日 パルテノン○○  

港町シェルブールで、傘屋を営む母と娘。娘には恋人がいたが、アルジェ戦争によって別れ別れに…。
セリフが全て歌というのは知っていたけど、冒頭から「♪残業してくれ〜」「♪いやです〜」には、ちょっと引いた。しかし、10分もしないうち、台詞=歌が自然に入ってくるようになり、ドゥミの世界に引込まれていた。
歌には、当り前だけど、言葉と旋律がある。言葉はストレートすぎて、繊細な心情までは表現できない("詩"のレベルになるとちょっと別だけど)。でも、音楽はそれができる。ドゥミは、言葉(台詞)に、旋律=音楽という表現手段を重ね、登場人物の、言葉にはできない繊細な心情までも表現しようとした。ドヌーブの「ジュテーム!」の絶唱は、ジュテームだけでは語り尽くせない彼女の張り裂けそうな想いが、旋律の波として、観客の心をダイレクトにふるわせる。
そして、"セリフが歌"という非現実的世界を自然に見せているのは、"色"だと思う。インテリアや小物、衣装などが、色鮮やかでポップだ。壁紙ドヌーブ衣装配色まで考えられている(ドヌーブの衣装がかわいい!。あと10才若かったら真似してたな)。それが、見た目にお洒落な空間を演出するだけでなく、どこか非現実的で歌が違和感なくとけ込む舞台装置にもなっている。
しかし、物語までお伽話にしないところが、ドゥミの凄いところだ。物語は、非情なまでに現実的である。特にあのラストシーンは。「会えると思わなかったわ」「あなた元気?」。そこにオーバーラップしてくるルグランのあの旋律。なんの飾りもない、シンプルで現実的な台詞の後ろに、隠されたドヌーブの悲しみ、諦めが、旋律の高まりとともに、溢れるように押し寄せる。
ドゥミは、"セリフが歌"という非現実的世界によって、実は、とてもリアルに、言葉や映像では到底表現できない、一緒になれなかった男女の心の揺れや、一生秘めていかねばならない想いまで、見事に描ききっているのである。
理屈っぽく語っておいて、言うのもなんだけど。この映画に関しては、こういう理屈っぽい分析は"野暮"。なんて美しいんだろう…物語も、ルグランの音楽も、ドヌーブも…。見終わった後、放心。そして、ため息。。。これだけでいい。

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「ロバと王女」 1970年 フランス

監督;ジャック・ドゥミ  音楽;ミシェル・ルグラン
  出演;カトリーヌ・ド・ヌーブ,ジャック・ペラン,ジャン・マレー,デルフィーヌ・セイリグ
2006年2月25日 パルテノン○○  

シャルル・ペローの童話を映画化。青の国のお姫様が、父親に求婚される。困ったお姫様は妖精の知恵を借りて、ロバの皮を被り、身をやつして赤の国へ逃亡。赤の国では一転して、「ロバの皮」と馬鹿にされ、下働きの辛い日々。けれど、赤の国の王子様は「ロバの皮」に恋をしちゃったから、さあ大変!。
お父様に溺愛されたお姫様が、世間で苦労しつつ、自らの努力で恋を成就させる寓話。お洒落な、フランス製お馬鹿映画とでも言おうか。話の展開がとろんとろんして、ちょっと退屈。でもいいの。見どころいっぱいだったから。豪華で上品なドレスを着たドヌーブ姫様にうっとりし、若い頃の溌剌としたジャック・ペラン(『ニュー・シネマ・パラダイス』大人のトト役)にほぇーっ!と驚き、ジャン・マレーやデルフィーヌ・セイリグの大物俳優が、なんかお馬鹿さんな役をやっている。。。し、信じられん。それだけで、私は十分に楽しめた。
ドゥミらしく色鮮やかで、箱庭のような可愛い舞台。赤の国ではインテリアや小道具も赤を基調にし、家来たちも衣装から顔の色まで真っ赤、青の国の人は以下同文…。色が溢れる世界が、逢瀬のシーンで真っ白な衣装に!。二人をつつむ緑の森。最近ヒットした『チャーリーとチョコレート工場』は、この色づかいを真似たと思われる。
隣で観ていた子供は、飽きて、むずかっていた。そりゃそうだ。あのウィット、高度なボケのセンスは、子供には分かるまい。大人の映画。

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「シェーン」 1953年 アメリカ

監督;ジョージ・スティーブンス
出演;アラン・ラッド,バン・ヘフリン,ジーン・アーサー,ブランドン・デ・ワイルデ
2006年2月11日 第42回シネマクラブ上映会  

ある日、開拓農民スカーレット一家に流れ者シェーンがやって来て、開拓を手伝うようになる。集落では、カウボーイ(牧畜)と開拓農民の間で土地争いが泥沼化しており、シェーンは一家のためにカウボーイの雇った殺し屋に、ひとり立ち向かっていく。西部劇の傑作。
弱き者を助け、風のように去っていくヒーロー。学生時代に観た時、何処にでもある話じゃん…普通すぎる。と思った。しかし、「(このヒーロー像は)ありそうで、実は『シェーン』が初めて」というシネマクラブチーフの解説を読み、間違いだったことに気付く。そうか、逆なんだ!。『シェーン』のプロットを真似た映画があまりに多いのだ。日本映画でも、山田洋次『遥かなる山の呼び声』、伊丹十三『タンポポ』などが、すぐに思いつく。映画に限らない。私の子供の頃には、ドリフの西部劇コントが『シェーン』の酒場シーンのパクリだったし、CMでも「大きくなれよ」なんて『シェーン』のパロディをやってたぐらいだから、映画を観てなくとも、私には『シェーン』が既に馴染んでいた。それほど、後々の映画やエンターテイメントに大きな影響を与えた。やっぱり凄い映画だ。
改めて観ると、完成度が高いなぁと思う。正統派西部劇に見えて、ディテールは伝統的な西部劇にはない要素があり、それが『シェーン』の良さでもある。
まず、『シェーン』の場合、悪役カウボーイにも、農民を土地から追い払う筋の通った理由がある。一方、開拓農民にも土地の権利を主張する理由がある。両者の土地に対する正当性が、対立をより根深いものにし、作品を盛り上げる。従来の西部劇に見られる、カウボーイ対インディアンという単純な構図ではない。
次に、情感ある人間ドラマをたっぷり見せる。人を殺めてきたガンマンは、平穏な暮らしなんて望めない。けど、スカーレット一家との暮らしのなかで、シェーンはちょっとだけ夢を見た。恋もした。ガンマンには戻りたくなかったはず。しかし、一家を助けるために、自分の夢は捨て、再びガンマン=人殺しに戻ってひとり決闘に向かう。格好良さと、どうあがいてもガンマンにしかなれなかった男の哀しさを感じさせる。ヒーローをここまで叙情的に描いた西部劇は、あまりないと思う。
最後に、敵対するガンマン(ジャック・パランス)の存在感!。悪役といっても、あそこまで悪そうなヤツも、ちょっと他では見たことがない。
根深い対立が、哀しさを背負った男と、強烈な悪の決闘に置き換えられる。否が応でも決闘は緊迫する。西部劇の見せ場である決闘も、『シェーン』は意外に短い。しかし、今まで述べてきたように、決闘までの盛り上げ方が素晴しいので、決闘シーンはインパクトあるものになる。
あの名ラストシーンは、もう何も言うことがない。腕をだらりと垂らし、馬から落ちそうになりながら去っていくシェーンの後ろ姿。あの後、どうなちゃったんだろう…(´・ω・`)。子供に、最後まで"強い男"を見せるシェーンが、とても切ない。

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