「コーラス」 2004年 フランス=スイス=ドイツ 

監督;クリストフ・バラティエ
出演;ジェラール・ジュニョ,フランソワ・ベルレアン,ジャン・ヴァティスト・モニエ
2006年3月 DVD自宅ごろ寝シアター  

戦後間もないフランスの田舎。親のない子や問題児が集団生活する寄宿舎学校。舎監として赴任したマシューは、合唱を通じて、罰と恐怖で管理された子供たちの心を開いていく。そのなかに、素晴しい才能を持つモランジュがいた。
音楽を通じた教育というありふれたテーマで、オリジナリティには乏しいが、私はシミジミと良い映画だなぁと思った。
この手の映画は、大抵、先生が模範的すぎて、シラける。しかし、マシューは模範教師と言い難く、そこがかえって人間味を感じさせる。生徒の母親に恋をし、音痴の子を譜面台にしたり、札付きのワルには最初から理解を示そうとはしなかった。しかし、子供たちの悲しみや夢には、教師という立場を超えて、人間として真摯に向き合う。彼らの悲しみを受けとめ、夢を守るためなら、子ども達の罪を庇ったり、教師の立場では本来してはいけないこともする。自分が夢の挫折者だからだ。
全体的に、マシューと子供たちの交流はサラッと描かれており、私は洗練されていて、いい演出だなぁと思う(ここを批判する人もいるけど)。こういう映画で、熱い演出をされると、感動がサッーと引いてしまう。あの慎み深い別れのシーンは、なんて美しいのだろう。じんわりと胸があつくなる。
そして何と言っても、この映画の魅力は、コーラス!。映画のコーラスは、サン・マルク少年少女合唱団が担当。モランジュ役のジャン=バティストも、同合唱団のソリストを務める。ボーイソプラノは、はかない。だからよけいに、美しく感じるのかな。
最後に一つだけ文句を。ジャック・ペラン>どうしてワンパターンなんだ…あれじゃ『ニュー・シネマ・パラダイス』とまったく同じじゃん。最近は、プロデューサーとしての評価の方が高いようだけど。

Cinema Diary Top

「ジーザス・クライスト・スーパースター」  1973年 アメリカ

監督;ノーマン・ジュイソン 
出演;テッド・ニーリー,カール・アンダーソン,イヴォンヌ・エリマン
2006年3月 ビデオDVD自宅ごろ寝シアター  

ロックで語られるイエス最後の7日間。原作は、ティム・ライス(作詞)、アンドリュー・ロイド・ウェバー(作曲)、11人のヴォーカルによるアルバム『ジーザス・クライスト・スーパースター』。イエス役ヴォーカルがディープパープルのイアン・ギランだった。このアルバムが大ヒットし、そしてミュージカル化→映画化された。
もともとアルバムというだけあって、音楽が良い。70年代…それはロックが一番輝いていた時代(←憧れ〜)。この原作アルバムは、プログレの流れから生まれたと想像する。プログレは60年代末から70年代が全盛期。クラシック、ジャズ、民族音楽、オペラなどの要素を取入れた音楽性の高いロックで、重厚で壮大な音、厚みのあるコーラスなどに特徴がある。アルバムも統一したコンセプトを持った一つの作品として作られ、十数曲で語られる一つの物語・世界という感じ。アルバムで、イエスを務めたイアン・ギラン(ディープ・パープル)もプログレ。
映画よりロックの話が長くなってしまった…。この映画では、イエスや使徒たちを神の子・聖人ではなく、"欲もあり、悩みも深い人間"として描く。イエスは、神に対する疑問を持ち苦悩する。ユダは、神ではなく、自分たち=人間が生き続ける道を必死に求める。マグダラのマリアは、人間としてのイエスを愛する。使徒たちは名声を求めている。この映画が、キリスト教信者から"聖書・キリストの冒涜"と批判されるのも無理はない。ロックは反体制・反権威の象徴であり、伝統的価値観をぶっこわした音楽だ。"聖書"の確固たる価値観をぶち壊すには、ロックという表現手段がピッタリだったのだと思う。
また、これは映画版の特徴だと思うが、70年代テイスト爆発。イエスの時代とは相容れないヒッピーやハイレグレオタードのお姉さんが出てきたり、戦車が走ったり、最後のユダのステージといい…。これも価値観の破壊を徹底するための演出というべきか…うーん微妙。70年代サブカル的な奇抜さを狙って、チョット滑った?という感じがする。
ノーマン・ジュイソン監督の他作品として『屋根の上のバイオリン弾き』もお薦め。10代の頃に観て、感動した作品の一つ。私のなかでは『屋根の上のバイオリン弾き』>>>『サウンド・オブ・ミュージック』。

補足・ユダとマグダラのマリアのこと
『ジーザス・クライスト・スーパースター』のなかで、ユダとマグダラのマリアは、主役イエスよりも重要な役である。聖書のなかで私が好きなキャラは、ユダとペテロ、マグダラのマリア(←ずいぶん反抗的だな…)。
私の理解では、キリスト教は"父親的宗教"であり、人間に対して極めて高い理性や道徳を求め、そこから外れた人々は救われない(=天国の門は狭い)。ところが、そういう息苦しくなりそうな厳格な価値観のなかで、ユダ、ペテロ、マグダラのマリアは、私には身近に感じる存在なのだ。
ユダはイエスを裏切り、ペテロは鶏がなくまでにイエスを知らないと3回言い、ものすご〜く、ものすご〜く後悔して、涙を流す。ユダヤやペテロは、高い理性・道徳を求めようとしても、それができない弱い人間であり、彼らはその弱さ故に、後悔し、苦しんでいる。私は、ユダやペテロに近い…。
そういう罪深い者は、救われない。しかし、罪深い者も救われるかもしれない(もちろん、悔い改めることが条件だけど)…と思わせるのが、マグダラのマリアだ。マグダラのマリアは娼婦。姦淫という重い罪を背負った彼女は、救われるべき人間ではない。けれど、イエスは、罪深さに苦しみ泣いているマリアに、足へキスすることを許し=罪を赦した。そして、イエスの最期、復活まで見届ける。
映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』では、ユダは神より人間を愛するが故にイエスを裏切り、マリアはイエスを人として愛する。私のイメージとはすこし違うけれど、人間味あふれる存在としてスポットを当てられ、ちょっとうれしい。

Cinema Diary Top

「17歳のカルテ」 2000年 アメリカ

監督;ジェームズ・マンゴールド
出演;ウィノラ・ライダー,アンジェリーナ・ジョリー
2006年3月 DVD自宅ごろ寝シアター  

60年代末。自殺未遂したスザンナは境界性(ボーダーレス)人格障害と診断され、精神病院に入れられる。そこで、反社会性人格障害のリサや、さまざまに心を病んでいる少女たちと出会う。スザンナ・ケイセンの回想録に感動したウィノラが、自ら製作総指揮、主演。
回想録が原作という割には、心の病気、精神病院への切り込みが浅いと思う。誰にでもある(私にもあった)若い頃の大きな勘違い。苦労も知らないクセに、世の中をなめていて、大人たちをバカにしている。夢は大きいが、努力はしない。情緒不安定で、ナルシストで、ワガママ。スザンナはそれが人より強いという印象はあっても、境界性人格障害という病気がいまいち見えてこない。
でも、そういう青臭い甘えから脱皮して、大人への一歩を踏み出すまでの"青春映画"としては、悪くはない。映画のなかで『オズの魔法使い』が度々引用される。色鮮やかな魔法の国から、自らの意志でモノクロのカンザス州へ帰るドロシーと、スザンナたちが重ね合わせられているのだろう。 精神病院へ向かうタクシーのなかで、運転手は言った「馴染むなよ」。これはラストシーンまで引きずる重いセリフである。スザンナは病院に馴染んでしまった。外では白い目でみられても、病院では"異常"が普通で、仲間もいるから居心地が良かった。境界性人格障害、反社会性人格障害、虚言癖…病名はいろいろあるが、ドロシーのように、それが現実からの逃避であることに自分で気づき、自分の意志で厳しい現実社会へと旅立たなければならない。彼女たちは、他の人たちより繊細なだけに、しんどい回り道しながら大人になる。その苦しみや迷い、痛々しさは、よく描けていると思う。
『カッコーの巣の上で』との比較され、厳しい点が付けられている映画評をよく見るが、それはチョット筋違いだろうと…。"青春映画"に『カッコーの巣の上で』のテーマを期待する方が無謀じゃないかと…。
アンジェリーナ・ジョリーの演技が凄い。本作品でアカデミー賞助演女優賞。かなり派手な役なので、繊細な役どころのウィノラ・ライダーより目立っている。

Cinema Diary Top