「セブン」 1995年 アメリカ

監督;デビット・フィンチャー
出演;ブラッド・ピット、モーガン・フリーマン、グウィネス・パルトロー、ケビン・スペーシー
2006年9月2日 DVD自宅ごろ寝シアター

サイコサスペンス。"七つの大罪"になぞらえた連続殺人事件。老刑事は知性で、若い刑事ミルズは行動力に任せて犯人を追う。
「羊たちの沈黙」(1991)以来、数多く製作されるようになったサイコサスペンス。その大半は、映画としての完成度、サスペンスの要である"謎"の面白さを御座なりにして、犯人の異常性やグロい絵作りにばかりに凝って、もう勘弁してください…だ。「セブン」脚本も結末に驚きはあるが、サスペンスとしての筋立てはイマイチ。まず、やはり異常性と殺しのグロさで話を盛り上げ、ストーリーの展開に一貫性を欠く。第2の殺人までは緻密に描写し、犯人の恐るべき計画性を強調するが、第3以降の殺人はササッと流して、殺しのグロいところだけをむき出したり、あっさり計画を変更したり。
しかし、完成度の高い作品になったのは、ふたりの刑事の人物描写がしっかりしていたこと、監督もそこを丁寧に演出し、俳優が見事な演技力で応えたからだと思う。これが、この映画最大の見せ場であるラストを最高のものにした。若い刑事ミルズ(ブラピ)は上昇志向が強くて、自分をわざと過酷な状況におき、難事件を手ぐすね引くように待っている。後先を考えない。捜査令状を取らずにドアをぶちやぶり、感情と体力まかせで捜査する。一方、老刑事(モーガン)は、知性がある。冷静沈着、人望もある。どのシーンでも2人の性格をがっつりと見せるからこそ、ラストシーンにもの凄い緊張感がみなぎり、衝撃が走る。ブラピはテンションの高い役が上手いし(「12モンキーズ」もそうだった)、モーガン・フリーマンも刑事役はお手のものだし、ケビン・スペーシーはこの頃から何を考えているか分からない男がハマッているし、グウィネス・パルトローはいつも不安げな感じを漂わせていた。この作品をきっかけに、映画界では殆どキャリアがなかったケビン、グウィネスが注目されはじめたのは、なんか分かるな。
ちょっと感心したのは、天気の使い方。第5の殺人までは、始終どんより、雨がざぁざぁ降る。陰鬱な空気が漂う。それに比べて、最後のシーンの晴れやかなこと。殺人者にとってはカタルシスを、刑事には、思考が低下し、めまいしそうな暑ぐるしさを。

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「さよなら、さよならハリウッド」 2002年 アメリカ

監督;ウディ・アレン
出演;ウディ・アレン、ティア・レオーニ、トリート・ウィリアムズ
2006年9月22日 WowWow録画自宅ごろ寝シアター

バックステージコメディ。ヴァルは落ち目の映画監督。そこに大作のオファーが舞い込む。プロデューサーは元妻エリー、製作会社の重役は妻を奪った男というのが引っかかるが、監督再起の願ってもないチャンス。しかし、神経質なヴァルは、クランク・インの前日に心因性の失明におそわれてしまった!。
やっぱり面白いなぁ>ウディ・アレン。窮地に陥った小心者の悪戦苦闘ぶりは、彼の完成した"芸"だ。この作品も期待を裏切らない。アレンが演じるキャラや作風はワンパターンなんだけど、私には飽きないキラッとした魅力があるんだな。
古くからのウディ・アレンファンは、近年の作品はキレがないと評価する。確かに、最近は、初期作品のような、どぎついインテリジョークは抑え気味だ(マシンガントークは健在だが…)。アレンは、80年代ぐらいから単にジョークで笑わせるのではなく、登場人物を掘り下げ、物語をもっと豊かに描き、その脈絡のなかで得意のインテリジョークを生かす方向へと変わってきた。私は、その作風が円熟してきたと思う。同作品でも、アレンのジョークやドタバタぶりはもちろん、制作、監督、カメラ、美術、役者などの衝突を描きながら映画企画から完成まで追っていくストーリーも、元妻とその恋人との微妙な人間関係も面白い。キツイ台詞だけがひとり歩きしてしまうアンバランスさがなくなり、面白い物語のなかにアレンジョークがとけ込んでいる。
表現は抑え気味でも、作品に強烈な皮肉をこめるのは忘れない。タイトルからして挑発的だ。小心者で、ひ弱そうなふりをしながら、ハリウッド映画、さらには実験的な手法にこだわるヨーロッパ映画や、それを持ち上げる観客まで皮肉っている…。
驚いてしまったが、アレンも70才。これだけのキャリアがあれば「巨匠」と呼ばれるところだが、そういう偉そうなものが似合わないところがステキ。私がアレンの映画をはじめて観た20年前と変わらず、パワフルである。仕事も、プライベートでの噂も。

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「息子の部屋」 2001年 イタリア

監督;ナンニ・モレッティ
出演;ナンニ・モレッティ、ジャスミン・トリンカ
2006年9月21日 DVD自宅ごろ寝シアター

精神科医ジョバンニの息子が事故死し、幸せだった家族が崩れていく。ある日、亡きアンドレア宛てにガールフレンドから手紙が届く。彼女が持っていた写真はアンドレアが自分の部屋でおどける写真だった。カンヌ映画祭パルムドール受賞作。
息子の死を家族はどう受け止めていくのか。映画で起きる事件は重いけれど、全体的に単調で、退屈である。しかし、私はそれが同作品の重要なメッセージであり、評価すべき点でもあると思う。大切な人の「死」は、他人には想像できない深い悲しみだが、現実は多くの映画が描くようにドラマチックではないからである。現実社会では、悲劇の主人公を演じるわけにはいかない。仕事もして、社会的生活も営まなければならない。家族は、息子の死は誰のせいでもないのに自責の念にかられ、爆発しそうな悲しみを必死で抑えるしかないのだ。
仲の良い家族がバラバラになるのにも、憎しみ合ったり、ケンカしたりとか、そんな盛り上がりは必要ない。悲しみのような負の感情は、だれかに分かってもらいたいけれど、分かってもらえないから辛いのかもしれない。家族は同じ悲しみのなかにいるのに、自分を責めたり悲しむことに精一杯で、夫は妻の、妻は夫の、親は娘の悲しみが分からない。互いを思いやれなくなる、ただそれだけ。
タイトルから期待するように、息子の部屋から意外なものがでてくるわけでもない。父は息子の好きだった音楽をはじめて聞いたり、ガールフレンドの存在を知ったり、写真のなかで戯けている息子の意外な一面を見たりするけれど、それ以上の展開はない。ああ、こんな音楽を聴いていたんだとか、ああ、こんな滑稽なこともする息子だったんだと知るだけである。ガールフレンドだって息子と特別なつき合いだったわけでもなく、新しいボーイフレンドもいる。それが意外に現実なんだろうと思う。そして、家族の深い悲しみを癒すのもドラマチックな奇跡ではなく、ふとした小さな出来事だったりする。
気になったのはカット割り。正面バストショットが多い。特に、息子が事故死した後の父親(=監督主演)のバストショットが多い。そのため、父親のシーンは単調になる。何か狙いがあるのかもしれないが、それが見えてこない。監督ってナルシスト?としか思えない。
言葉やストーリーだけでは表現しにくい、内面の繊細な揺れを描こうとした良い作品だと思う。万人受けする作品ではないが、私は好きだ。でも、パルムドール賞を取るほど作品かなぁ…とも思う。歴代のパルムドール受賞作のように突出した凄さとか、斬新さとかが感じられない。

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「夕陽のギャングたち」 イタリア 1971年

監督;セルジオ・レオーネ 音楽;エンニオ・モリコーネ
出演;ジェームズ・コバーン、ロッド・スタイガー
2006年9月21日 NHKBS録画 自宅ごろ寝シアター  

メキシコ革命(1910's)に身を投じた元アイルランド革命闘士(ジェームズ・コバーン)と、はからずも革命に巻き込まれしまった盗賊(ロッド・スタイガー)との友情。マカロニ・ウェスタンの大作(私はここまでくると、マカロニ・ウェスタンにも入らないような気がするけど…)
圧倒的に男性に支持される監督だ。"友情と裏切り"。これを描かせたら、セルジオ・レオーネ監督の右に出るものはいないだろう。レオーネの男たちは、自分しか信じない孤高の男。胸のうちに復讐や高い理想の炎を燃やしながらも、静かにチャンスを待ち、確実にやり遂げる。くーっ!なんて格好いいんだ。男の格好良さの演出には妥協を許さない。レオーネ作品では、ストーリーにはあんまり関係ないのに、ただただ男の格好良さを見せるシーンが10分も20分も続いたりする。同作品でもコバーンの登場シーンの長いこと、格好いいこと!。(夕陽のガンマン」イーストウッドやリー・ヴァン・クリフ、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト」のチャールズ・ブロンソン、ヘンリー・フォンダにはもっとしびれたが…)。
本作は、前半と後半の作風がガラッと変わる。前半の銀行強盗までは娯楽要素の強いマカロニ・ウェスタン。しかし、後半は友情と裏切りのシリアスな男のドラマ。この落差は凄い。そのため全体の統一性がなく、焦点もぼやけ、完成度はそれほど高くない。長いし、中だるみもするし。しかし、いろんな意味でレオーネ作品の集大成だと思う。レオーネの初期代表作とえば、マカロニ・ウェスタン「夕陽のガンマン」などの低予算娯楽映画。しかし、マカロニ・ウェスタンが衰退し、本作の後、10年間沈黙した。そして次に世に出したのが「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」。作風は大きく変わり、少年ギャング仲間のそれぞれの人生を、やはり裏切りをテーマに、とても冷ややかな空気で描いた。つまり、これらの中間に位置する「夕陽のギャングたち」は、前半は彼の最後のマカロニ・ウェスタンであり、後半はマカロニから脱して「ワンス・タイム・アポン・イン・アメリカ」への方向性を見いだした作品だと思う。
彼が得意とする回想シーンも、ふんだんに使われる。レオーネは男の秘めた想いを回想によって明らかにし、観客の感情のツボをぐいっと抑えるのが巧いが、最後の方に長い回想を入れて、そうだったのか!と思わせるパターンが多い。しかし、本作はジェームス・コバーンのごく短い回想が、途切れ、途切れに入ってくる。謎めいた感じだが、最後の回想で、彼がどんなに辛くて孤独だったかを、息を飲む驚きを持って観客に伝えてくる(私が見たのは英語版だが、完全版ではもっと驚きらしい)。
そして、レオーネと言えばモリコーネの音楽。モリコーネの美しい音楽が、埃くさい決闘シーンに重なると、死ぬか生きるかのドライな決闘に情感がただよう。本作の音楽はさらに斬新である。激しい爆撃シーンに、ゆるやかに美しく切ない音楽が流れる。それもまた、遠い日の回想の1シーンになっていくとでも言いうように。しかも「ションションショーン」というコーラス入り。コーラスは冒険的であるが、「ショーン」の意味が、コバーンの回想を重ねるごとに分かってきて、最後の回想がぐっと胸に迫ってくる。調子の良い盗賊で、軽快に登場したロッド・スタイガーが、ラストは友人を失い茫然自失の表情で終わるのが印象的だった。

マカロニ・ウェスタンのこと
マカロニ・ウェスタンはイタリア製作のウェスタン。しかし、アメリカのウェスタン=西部開拓時代劇とひとくくりにしてはいけない。マカロニ・ウェスタンは、旧ヨーロッパの植民地であったブラジル周辺の中米を舞台にし、善悪混沌とした渇いた作風、残虐なシーンが多いのが特徴。"マカロニ・ウェスタン"は淀川長冶によるネーミングであることは、よく知られた小ネタ。

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「イヴの総て」 アメリカ 1950年

監督;ジョセフ・L・マンキウィッツ 
出演;ベティ・デイビス,アン・バクスター,ジョージ・サンダース,ゲイリー・メリル
2006年9月20日 NHKBS録画 自宅ごろ寝シアター  

ニューヨークへ出てきた田舎娘イヴは、舞台女優マーゴの付き人になることに成功する。これを足がかりに、脚本家・演劇関係者に巧みに取り入り、マーゴを踏み台にして、スター女優へのし上がっていく。バックステージ(ギョーカイ内幕)ものの最初の作品で、最高傑作と評価される。
じっくりと見入ってしまう面白さがあるのは、登場人物のキャラクター設定と、女優たちが"これって、素じゃないの?”と思わせるような闘いっぷりを披露していることだろう。イヴは謙虚な女から、徐々にエゴイスティックな本性をあらわにしていく。イヴ役のアン・バクスターはその変貌が見事だと評価されたが、私はそれ以上だと思う。イヴは普段から演技している女だ。謙虚も計算の上だし、色仕掛けや高慢な態度でもダメとなると、突然、悲劇のヒロインのように泣き叫んだり。アン・バクスターは、そういう普段から演技している"いやらしさ"を、視線、セリフの言い方や、手足の上げ下ろしからも感じさせる。イヴがまだ誰からも好かれていた時、一人だけ、家政婦の老婦人が「理屈じゃない、嫌な女だ」と言う。そういう直感的な"何となくヤな女"という感じを、アンは常にかもし出している。
そして、このアン・バクスターさらに上回るのが、マーゴ役のベティ・デイビスである。マーゴは人気が落ちはじめた、我が儘な中年の大女優。ベティ・デイビスは42才だった。マーゴは彼女がモデルとも言われるが、役のマーゴと決定的に違うと思うのは、美貌の衰え、落ち目の雰囲気を逆手に取って、素晴しい演技を見せる女優魂。ベティ・デイビスは同作品をきっかけに、醜い老婆役を次々に演じてヒットを飛ばすからスゴイ(本当は美しい人ですが…)。話は反れるが、たぶん彼女の遺作だと思うが、20年ぐらい前に『八月の鯨』(オススメ)を劇場公開の時に観た。もう80才近いおばあちゃんだった。その時、私はベティ・デイビスのことを知らなかったが、やっぱりプライドが高い、我が儘な役どころで、今思うとマーゴがそのまま年を取った感じだった。
女優の話が長くなってしまったが、演出や構成も良い。映画は、イヴの受賞式のシーンからはじまる。事情を知る演劇批評家の回想によって、イブがなぜこの舞台にいるかが冷ややかに語られる。その冷たーーーい語り口は、イヴの謙虚な微笑みや、華やかな世界が、ぜんぶ虚構であることを効果的に見せる。最後に、再び最初と同じシーンに戻るという構成はよくあるが、この映画ほど最初と最後のギャップを感じさせるものはないだろう。そして、イヴに取り入る女の子が登場。次はイヴが脅かされる番という終わり方なら、予想の範囲だ。しかし、その女の子が三面鏡に反射して、何人もいるように写し出される…。恐いなぁ…。
同じ1950年に『サンセット大通り』(未見、同作品も名作としての地位を確立している)が公開された。この2作品がバックステージものを開拓したと言われる。どこまで真実を反映しているのかは分からないが、一般ピープルにとっては華やかな世界の裏側を見られる、興味しんしんのジャンルであり、数は多くないがコンスタントに作られているように思う。最近では『プラダを着た悪魔』かな。

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「チャイナ・シンドローム」 アメリカ 1979年

監督;ジェームス・ブリッジス 
出演;ジェーン・フォンダ,ジャック・レモン,マイケル・ダグラス
2006年9月15日 DVD自宅ごろ寝シアター  

社会派サスペンスの名作。人気キャスターのキンバリー、カメラマンのアダムスは原子力発電所を取材中に異様な振動を感じ、制御室で慌てふためく技師たち、計器類の様子をカメラに捉えた。この事故の真相をさぐり、世に訴えようとするが…。
チャイナ・シンドロームとは、中華料理を食べ続けるとメタボリック・シンド…ヾ(--;オイ。
…ウソです。もしアメリカで原発事故が起ったら、炉心が溶解して超高熱になったウランが、格納容器の鉄を溶かし、さらに地面も地中も溶かし、地球を貫いて、裏側の中国まで達してしまうという現象。現実にはあり得ないけど。
計器のありふれた小さな故障、それを読む人間の判断ミス、手抜き工事、利益と安全性の矛盾、事故の過小評価や隠蔽…。どんなに安全装置が設計されていようと、原発事故を引き起こす可能性がある、ありとあらゆる状況が想定され、描かれている。本作から30年近く経た現在、映画で描かれた事が、たびたび現実に起きていることに愕然とする。人間が作り、管理するものである限り「絶対安全」はない。映画のなかで大惨事になってないことが、かえって怖い。原発は平静を保っているように見え、内部ではものすごく危険な綱渡りをしながら運転してるんじゃないか…と、想像させる。
この映画は、原発そのものの危険にとどまらず、原発を管理する企業の倫理欠如や、企業(権力)に操作されて、正確な情報を報道できないマスコミの問題をえぐり出すことにも重点が置かれ、原発問題が複雑で根深いことを訴える。企業利益のためには人命を危険にさらし、マスコミ操作や犯罪行為等どんな手段を使ってでも、都合の悪い事を隠蔽する。映画では、誇張され、サスペンスフルに描かれているが、こうした企業の倫理の欠如から起きる事故・事件もまた、原発でも、その他の業界でも後を絶たない。ここ数年の日本だけでも、自動車会社のリコール隠し、マンション耐震偽造問題…。この映画は、いまだに力強いメッセージを放ち、残念ながら色褪せていない。
原発の告発と同時並行で、企業内の上司と部下の対立、キンバリーのジャーナリストとしての成長も描かれ、人間ドラマの面白さもあわせ持つ。特に、ジャック・レモンの演技は最高である。有能な技術者がしだいに自信をなくし、額に汗を滲ませ焦燥していく、あの変り様。映画に、異様な緊張感をもたらす名演技だ。
補足しておくと、本作は当初、非現実的と批判されたらしい。しかし、公開の直後にスリーマイル島での原発事故が起り、原発の「絶対安全」神話は崩れた。スリーマイル島の事故は、人間の単純ミスによって原子炉から冷却水が失われるという、まさにこの映画で想定した事故であった…。原発先進国だったアメリカすら、原発を将来的に半減させる方向を打ち出した現在。日本だけなんだよな。まだ地球温暖化対策に有効だからとか問題の本質をそらしたり、プルサーマルだとか言ってるのは…。

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「禁断の惑星」 アメリカ 1956年

監督;フレッド・マクラウド・ウィルコックス
出演;レスリー・ニールセン,アン・フランシス,ウォルター・ピジョン
2006年9月11日 DVD自宅ごろ寝シアター  

惑星に降り立ったアダムス船長とクルーたちは、20年前に消息を絶った博士とその娘アルタに出会った。そして、博士は怪物がいるという警告するが、クルーはそれを無視し、次々と何者かに殺される。
SF映画の古典名作。50年前のSFだが、今の下手なSFよりずっと面白い。SFの要である設定と物語がしっかりしているからだ。まず、惑星の20年間の空白、博士の何か隠してそうな雰囲気、怪物など、謎めいたものにワクワクしてしまう。つかみが上手く、謎はどんどん深まっていく。最後まで一貫して娯楽性は崩さず、未来の高度文明の空想話から、その対極にある親の愛情のジレンマ、利己心や潜在意識といった人間の最も原始的なところまで降りていき、さりげなく文明批判までやってのける。スゴイ。この手の"謎"は、その後の映画・テレビドラマ、小説…さまざまな媒体で、SF以外にも数多く用いられてきたので、私は途中で結末が予想できてしまったが、当時としては斬新なストーリーだったのではないかと思う。
特撮シーンは、ほとんどアニメとミニチュア撮影に頼っていると思う。CGのようなリアル且つダイナミック感は出ないが、カット割りや演出が優れているために、今からみればチープな舞台装置でも、かなりのドキドキ感をもたらす。怪物の登場シーンは、怪物が見えない恐怖を存分に煽るし、怪物が正体を現わすシーンも、前のシーンから一瞬にして急転するから、手に汗握ってしまう。
円盤、惑星の環境や住居、衣装、ロボットのロビーなども、セットや作り物であることは一目で分かるが、当時の流行や、時代の空気が感じられる洒落たデザインで、味わい深いものがある。最近のレトロフューチャーブームのせいか、かえって今っぽいという、本末転倒のような何だか不思議な感覚におちいってしまう…。特に、ロボットのロビーは今でもSFファンには人気キャラらしい。ロビーが『スター・ウォーズ』R2-D2の原型になったことは有名。また、当時、販売されていたロビーグッズは、SF・玩具コレクターの間では垂涎の的らしく、「なんでも鑑定団」などに出ると、恐ろしい高値が付くと、知人から聞いたことがある。私はオモチャはいらないの、本物のロビーが欲しいの。ロビーさん、私にも、でっかい宝石とか、お洋服とか出してくださーい。ヾ(--;。
音楽なのか効果音なのか、不気味な金属音のような、ふぁ〜ん、ふぁあ〜ん、ふぁああ〜ん…という電子音。あれです、あれ。今でもよくSF、子供向けヒーロー特撮ものでも聞く音。この作品で考えだされ、初めて使われたことを知った。今ではあの音が流れただけで、条件反射的に宇宙、未来都市のようなイメージが思い浮かんでしまう。宇宙といえばあの効果音という永遠の定番を作っちゃったわけで、すごいなぁ。
50年代、本作品以外にも『遊星よりの物体X』、『タイム・マシン』、『宇宙戦争』などの名作SFが誕生している。1950年代、SF映画が大きく変った時期だったと思う。

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「イル・ポスティーノ」 イタリア=フランス 1995年

監督;マイケル・ラドフォード
出演;マッシモ・トロイージ,フィリップ・ノワレ,マリア・グラツィア・クノチッタ
2006年9月8日 DVD自宅ごろ寝シアター  

実在のチリの国民的詩人=パブロ・ネルーダのエピソードから生まれた物語。'50年代、ナポリ沖の小さな貧しい島に、パブロ・ネルーダが亡命してきた。毎日、詩人宅に郵便配達するマリオは、詩人との交流のなかで"言葉"に魅せられていく。
ちょっと照れるが、私は詩が好きだ。なので、本作品は、良いとか悪いとかいう以前に、響いてしまった。比喩も知らなかった青年が詩に惹きつけられていく過程は、まさに若い頃の自分を辿るようであった。比喩の力、言葉のリズム。訳が分からなくても、そうとしか表現できない気持ちがあること。自分のなかではモヤッとしていた気持ちが、詩人がぴったりとした言葉で表現した時の驚き。詩を解釈するのではなく、言葉の情感をそのまま感じることができた時に押し寄せてくる感動。マリオは、これらを全部ひっくるめて「言葉の海に漂う小舟のようだ」と表現した。…びっくりした。実は、私も同じ比喩で、詩を読んでいる時の気持ちを表現したことがあったからだ。だれでも考えつきそうな比喩と言ってしまえば、それまでだけど。彼が詩を発見していく新鮮な驚きが、私には手に取るように分かる。
マリオは詩人に聞いた>「世界のあらゆるものは、隠喩に満ちているのか」。世界は心を揺さぶるもので満ちていて、隠喩=詩を発せずにはいられないということなのだろう。マリオは美しい女性や、ネルーダへの思い、島の貧困…心揺さぶられるものを詩で語ろうとし、逆に、詩を作ろうとして、貧困しかないと思っていた島に、美しいものを見つける。詩という表現を知ることによって、すべてにおいて諦めが支配していた彼の人生が、少しずつ輝いていく。彼が政治に関わっていったのは、ネルーダのような政治的関心からではないし、また、ネルーダのように、詩を、政治改革をあおる手段にしようと思ったわけでもない。純粋に、政治家の住民を騙すような卑劣なやり口や、村の貧困に心揺さぶられ、憤り、それを表現せずにはいられなくなったからだ。その意味で、彼はネルーダ以上に詩人だったと思う。
マリオ役のマッシモ・トロイージは心臓病で完成直後に亡くなり、本作が遺作となった。彼が余命いくばくもない身をこの作品に賭けていることを、共演者・スタッフもたちも分かっていたらしい。ネルーダ役は、本人にもよく似ているフィリップ・ノワレ(『ニュー・シネマ・パラダイス』のアルフレード役が有名)。ラストシーン、ネルーダの感慨深げな表情のカットを見た時、さすがフランスの名優だなぁと思ったが、もしかしたら演技以上に、マッシモに対する思いが溢れていたのかもしれない。

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