「アメリカの夜」 1973年 フランス・イタリア

監督;フランソワ・トリュフォー
出演;フランソワ・トリュフォー、ジャクリーン・ビセット、ジャン=ピエール・レオ、ナタリー・バイ
2007年4月?日 DVD自宅ごろ寝シアター

ニースの撮影所で、フェラン監督が映画を撮影中。しかし、主演女優はノイローゼ気味だし、主演男優は駄々っ子だし、スタッフは駆け落ちするし、資金は苦しいし、猫は演技してくれないし…監督に次から次へと問題が降りかかる。ストーリーはないけれど、撮影所の風景一つ一つを貼り合わせた、モザイク画のような珠玉の作品。
何回観ただろうこの映画。大好きな映画である。トリュフォーは歴代映画監督のなかでも10本の指にはいる映画オタク。そのトリュフォーが撮った映画を素材にした映画だ。面白くないわけがない。
アメリカの夜(La Nuit americaine)は、昼間に、カメラにフィルターをつけて夜のシーンを撮る技法(最近は使われていないらしい)。ハリウッドで開発された手法で、英語では"day for night"。「アメリカの夜」はフランスの言い方。トリュフォーがこのタイトルをつけた意味は二つ想像できる。ひとつは、ハリウッド映画への敬意。映画の冒頭に「リリアン・ギッシュ、ドロシー・ギッシュ(映画創世記の姉妹女優)に捧ぐ」という献辞からも分かる。トリュフォーは、フランス映画の気取った文学臭を否定してハリウッド映画を愛し、でも娯楽だけに陥らない新しいフランス映画を作ろうとした。二つめは、昼を夜にしてしまう、このリアルな虚構が映画の本質だということ。観客はスクリーンしか見えない。が、スクリーンの枠の外の現実は惨めったらしい。水面下で足をばたつかせてる白鳥みたいな。お洒落な窓は、実は窓枠だけのペラペラ壁だったり、ロマンティックなろうそくの灯りは電球の小細工だったり、悲劇の死をを遂げるヒロインは、ごっついスタントマンだったり…。スクリーンの外の秘密をどっぷり見せ、映画がいかに虚構世界か、だからこそ人を魅了する世界であることを感じさせてくれる。
映画監督って何となく芸術家のイメージが漂う。その典型が、フェリーニ「8 1/2」に出てくる、眉間にしわ寄せ、創作できずに苦悩する監督だ。しかし、「アメリカの夜」のフェラン監督の苦悩は、目の前の現実問題をどうするかということでいっぱいで、芸術的なことを考える暇もない。その監督役をトリュフォー自身が演じているのだからリアルで、滑稽だ。いかにも"気取り"を嫌ったトリュフォーらしさが出ていて、私は好きだ。また、トリュフォーファンにとっては、彼が撮影の手の内を見せてくれているようで楽しい。実際はこの作品も真実ではなく、虚構なんだけど。
そして、ジャクリーン・ビセットの美しさ!。出世作であり、代表作。こんなに良い作品に出たのに、その後、なんで、お色気女優になっちゃったんだろう。。。
ジョルジュ・ドリューの音楽も良い。軽やかで、映画の心躍るような楽しさが感じられて。ちなみに、トリュフォー演じるフェラン監督が、電話で音楽をチェックするシーンがあるが、同じくジョルジュ・ドリューで、トリュフォー監督「恋のエチュード」で使われた音楽。

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「かもめ食堂」 2005年 日本

監督;荻上直子
出演;小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ、マルック・ベルトラ
2007年4月?日 wowwow録画自宅ごろ寝シアター

フィンランドの首都ヘルシンキ、日本人のサチエが営む「かもめ食堂」。閑古鳥が鳴いているけど、ミドリ、マサコ、日本かぶれの若者、ヘンなおばさん、おじさん…引き寄せられるように集まってくる。
彼女たち3人は何か悲しいことがあって、日本から脱出してきた。それを隠してるわけでもなく、でも同情を求めて語るでもなく、仕方がないという佇まいがある。私が好きなのは、そうした生きていたら必ずぶつかるだろう、仕方のない辛さや悲しみに対する諦念だ。「どこにいても悲しい人は悲しいし、寂しい人は寂しい」。「真面目にやっても、ダメな時はやめちゃいます」。前向きになるための諦念は簡単なようだけど、なかなか持てないものだ。だから、彼女たちに潔さを感じるのだろうな。舞台がヘルシンキのせいもあるけど、監督、小林聡美ら俳優たちは、凛とした空気、透明感を出すのがとても上手い。
そして、ご飯がおいしそう(^u^)。サチエのご飯を食べたら、幸せな気持ちになるだろうなぁと思う。悲しい時もお腹は空くし、特別なものじゃなくても、おいしいものを食べている時は幸せだ。それが、誰かが自分のためにつくってくれたご飯だったら、もっともっと幸せだ。サチエが、コーヒー、おにぎりは人に作ってもらうのが旨いと言っていたけど、まったくその通りだと思う。私は、自分でご飯をつくるけど、あまりおいしいと思ったことない(下手じゃないけど)。板前の弟も同じことを言っていた。
一つだけダメ出しすると、サチエのコーヒーの淹れ方は、ポットからどばどばっとお湯を注いでおり、あれでは「コピ・ルアック」と唱えてみても(^_^)、美味しく入らない。ちなみに、「コピ・ルアック」を伝授するおじさん役のマルック・ペルトラは、フィンランドを代表する監督、アキ・カウリスマキ作品によく出演している。なかなか渋くて、とぼけた味わいがある。
フィンランドの風景、素朴な北欧のインテリア、ファッションも好きだな。マサコのマリメッコの服もかわいいけど、私はサチエの服の方が好みかな。サチエの服はどこの洋服かよく分からない(だれか教えてください)…。
ふっと思いついたのだけど、私がプロデューサーだったら、高野文子『るきさん』(私の大好きマンガ)をこの監督に撮ってもらう。えっちゃんを小林聡美、るきさんは…えーっと、えーっと、誰だ?。意外に、宮沢りえなんか合うかも。

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「許されざる者」 2002年 アメリカ

監督;クリント・イーストウッド
出演;クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマン、ジーン・ハックマン
2007年4月?日 DVD自宅ごろ寝シアター

若い頃、賞金稼ぎで悪名をとどろかせていたマニー。銃を捨てて一緒になった妻に先立たれ、子供たちと静かに暮らしていた。しかし、金のために再び銃を取る。
ガンマンが暴力で町を牛耳る悪いヤツを殺す、という勧善懲悪の正統派西部劇を踏まえつつも、"殺し"に対する葛藤、逡巡まで踏み込んで人物像やストーリーに厚みを持たせ、何が悪で、何が善か、単純に決めつけられないでしょという逆の結末を導く。これは、本作に限らず、クリント・イーストウッド監督作品の核になっている思想だと思う。西部劇では、ヒーローが、カッコ良く悪いヤツを始末するが、人を葬るってそんなに簡単じゃない。銃口を人に向ければビビるし、殺しに良いも悪いもないけれど、老ガンマンも、悪徳保安官も、娼婦も、殺しを正当化する理由を自分に言い聞かせる。ラスト以外は、どの"殺し"も本当に殺すほどのことか?という疑問が残り、結局は、みーんな「許されざる者」になっている。
老ガンマンの変貌が、あのラストを最高に素晴らしいシーンにしている。すべてはラストのため。それは分からないでもないが、畑を荒らす鹿でも撃ちにいくような老ガンマンの緊張感のなさ、かっこ悪さの演出は、ベタだし、くどい。そこだけは、いただけない。
夕陽のガンマンが年老いると、こんな感じ?。マカロニ・ウェスタンのヒーロー、クリント・イーストウッドが、よれよれの老ガンマン。狙っているとは思うが、主人公マニーの過去は、イーストウッドの過去の役柄とだぶる。監督は、年老いたガンマンを格好良く引退させ、自らの西部劇に終止符をうったのだろう。本作で、初のアカデミー監督賞、作品賞を受賞した。

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「プライベート・ライアン」 1998年 アメリカ

監督;スティーブン・スピルバーグ
出演;トム・ハンクス、トム・サイズモア、ジェレミー・デイビス、マット・デイモン
2007年4月?日 DVD自宅ごろ寝シアター

ノルマンディ上陸作戦で3人の息子を亡くしたライアン家。4男のジェームズ・ライアン二等兵だけは前線から救出し、母の元へ帰せという命令が下る。ミラー大尉ら8人は、たった1人の二等兵を探すため、命がけで敵陣へと向かう。
これまでの戦争映画では、どんなにリアリティを追求した作品でも、"戦場での死"をリアルな映像にすることだけは回避してきた。あまりにも悲惨だから。しかし、この作品は、その暗黙のお約束を敢えて破った。冒頭のオマハビーチ(ノルマンディ上陸で最大の犠牲者を出した)から、体が凍りつく。上陸用船のタラップが開いた瞬間から、砲撃の嵐に体が崩れ落ちる。海に沈む死体、死体、死体。ちぎれた腕を拾って逃げる兵士、首が吹き飛び、体は半分になり、体からはみ出した内蔵を押さえながら死んでいく。夥しい死の描写は、戦争は"国家と国家の争い"という抽象的言葉のベールを引きはがす。戦争とは、こんなふうに死ぬことだと言っているようだ。スピルバーグは、ロバート・キャパが残したオマハビーチの写真を参考に、このシーンを撮ったらしい。残酷だという理由で、R−15指定である(私は反対だな)。
ストーリーでも国家としての戦争より、兵士個々人へ焦点が絞られていく。ライアン1人を救うために多くの命が犠牲になる、国家の身勝手、戦争の理不尽さ。国家にとってはライアン以外、兵士は一括りだが、ライアンを探す道中で、ひとりひとり生い立ちがあり、家族もあり、戦場で何を思うのかがも違うことが分かってくる。もちろんオマハビーチの折り重なる遺体ひとつひとつにも。特に、任務に忠実なミラー大尉の意外な過去が分かったとき、他人の人生を奪い、あんな悲惨な死に方で人生を奪われる無念が、重ーーーくのしかかってくる。戦場で死ぬか生きるかは、もう"運"としか言いようがなく、だからこそ、多くの理不尽な人生の最期の上に生き延びた者の"生"は重い。
最後の橋の攻防をめぐる戦闘シーンは、「レマゲン鉄橋」をかなり意識していると思われる。あの戦車の走らせ方とか、塔の上でのシーンとか、「レマゲン鉄橋」を彷彿させるショットが多かったな。

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「レマゲン鉄橋」 1968年 アメリカ

監督;ジョージ・ギラーミン
出演;ジョージ・シーガル、ロバート・ヴォーン、ベン・ギャザラ
2007年4月?日 DVD自宅ごろ寝シアター

第二次世界大戦末期、レマゲン鉄橋をめぐるナチスドイツと連合軍の攻防を描く。ナチスドイツはライン川にかかる最後の橋=レマゲン鉄橋の爆破を決定するが、現地指揮官は避難路を確保するため爆破を先延ばししようとした。しかし、ライン川を越えて侵攻しようとする連合軍が、最後の橋へ迫ってくる。
戦闘シーンが有名。本物の戦車が疾走し、本物の機銃で、本物の橋や建物を爆破する。 あまりの迫力に…あん( ̄O ̄;)ぐり…である。戦車があんなに速いなんて知らなかったよー。取り壊しが決まっていた建物と橋を利用して撮影されたらしい。例えば「プライベートライアン」のように、セットやCGでもリアルな映像は作れるが、どこか"つくりもの"っぽい感じは残る。この映画にはそれが全然ない。特に、建物の崩れ方や瓦礫の飛び散り方が重く、機銃音、爆発音など音が生々しい。こんな撮影はもう許されないだろうし、第二次世界大戦期の兵器類を集めるのも難しいだろう。その意味で、資料的価値もある映像だと思う。
しかし、映像だけでは歴史に残る映画にはならない。この映画が素晴らしいのは、戦場でのいろーんな人間像を描き出したことだ。戦争映画でヒューマニズムというと、地獄のような状況下で、なお失われない人間性を描くか、または非人間性を描くことによって人間性をうったえるか、どちらかに偏ることが多いが、この映画では、兵士も民間人も、またナチス・連合軍という偏見もなく、戦場にいるありとあらゆる人間を描く。連合軍兵士の本当の敵は、ナチスじゃなくて、兵士の命を屁とも思わない上官のように思えてくるし、ナチス将校が孤立無援で民間人を救おうとしているのに、ナチス思想に洗脳された少年や民間人が人間性を失ってたり、連合軍兵士とナチス将校がちょっとしたことで通じ合ったり、戦場では、いったい何が本当の敵で、何のために戦っているのかを考えさせられる。焦点を当てる人物、エピソードが多すぎて、やや散漫な感じもするけれど、そのメッセージはよく伝わってくると思う。
音楽はエルマー・バーンスタイン。「レマゲン鉄橋」は知らなくても、この音楽はどこかで1度は聞いたことがあるんじゃないかなぁ。あっちこっちで使われているのをよく聴くもの。

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「スター・トレック」 1979年 アメリカ

監督;ロバートワイズ
出演;ウィリアム・シャトナー、レナード・ニモイ、デフォレスト・ケリー、パーシス・カンバシッタ
2007年4月?日 DVD自宅ごろ寝シアター

地球へ謎の発光雲が近づいてきていた。これを阻止するために、カーク船長、スポックらクルーが、エンタープライズ号で旅立つ。
最後の落としどころに、この映画の面白さがぜんぶ詰まっている。宇宙中探し回ったけど、幸せの青い鳥はウチで飼っていた鳩でしたみたいなね。ちょっと違うか(汗)。
面白い映画だけれど、トレッキーじゃない人には冗長に感じる。ストーリーとはあんまり関係ないのに、お馴染みキャラの見せ場とか、エンタープライズ号の特撮とか、トレッキーファンサービスシーンが長すぎ、多すぎ。なかなか核心に迫らない…。ジェリー・ゴールドスミスの音楽にのせて、エンタープライズ号があらわになるシーン、発光雲(ヴィージャー)へ入っていくシーンなど宇宙空間をじっくりゆっくり見せるところは、ワイズらしい優雅さがあるけれどね。
インド人女優、パーシス・カンバシッタが美しい。

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「アンドロメダ」 1971年 アメリカ

監督;ロバートワイズ
出演;アーサー・ヒル、デヴィッド・ウェイン、ジェームズ・オルソン、ケイト・リード
2007年4月?日 DVD自宅ごろ寝シアター

SF映画。アメリカの田舎町で、赤ん坊と老人2人を除く住民が突然死した。政府は極秘裏に科学者を呼び集め、墜落した人工衛星に付着していた未知の細菌が原因であることを突き止める。
原作はマイケル・クライトン『アンドロメダ病原体』。著者は科学者でもあり、「ジュラシック・パーク」、ドラマ「ER」の製作者としても有名。科学的な知識に裏づけられたSFを創り出す。
"未知の細菌による人類滅亡パニック"は、70年代においては目新しいテーマだったと思うが、全体に地味である。SFとしてのストーリー性、哲学・思想的要素、パニック映画の娯楽性が、良い意味で、そぎ落とされている。この映画の面白さは、国家レベルで緊急事態が起こった時の、科学的な極秘調査の経過を現実的に組み立てて、映像化しているところにある。素人が理解できようができまいが、おかまいなしに、科学者たちはあれよあれよとシェルターの奥深くに入り、なんとかという装置を操り、なんとか理論を駆使し、専門用語をバシバシ使いながら慣れた手つきで調査を進めていく。その過程で、どこでも起きそうなうっかりミスの怖さ、非合理的な実験方法や、師弟関係とか、女性研究者への偏見とか、当時の科学研究業界にはびこる古い体質までさらけだす。そう、この映画は理系への愛に満ちているのだ!。近年、ちょっとしたブームになっている理系ドラマの嚆矢かもしれない。最後の方で、取って付けたような娯楽的展開があり、今の目で見ると理系に徹した方がいいのに…と思うが、パニック映画全盛の70年代では、それじゃ地味すぎたのだろう。
監督はロバート・ワイズ。「ウェスト・サイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」のワイズにしては、意外に堅い映画である。同じSFでも「スター・トレック」がワイズ監督というのは何となく結びつくんだけどね。それはまた後で。

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