「インテリア」  1978年  アメリカ

監督;ウディ・アレン
出演;ダイアン・キートン,ジェラルディン・ペイジ,メアリー・ベス・ハート
2007年12月30日  DVD  病院ごろ寝シアター

dvd 完璧主義で、一流のインテリアデザイナーの母。弁護士の父と3人の娘たち。母が支配する家庭は完璧なはずだったが…。ある朝、父は別居を提案し、家庭は静かに崩壊していく。ウディ・アレンが、ベルイマン監督『叫びとささやき』に触発されて制作したコメディではない唯一の作品。
唸った。アレンのなかに、これほどまで静謐な世界があったとは。作風は異なるが、創作の原点は他のコメディ作品と同じ。それは自身の劣等コンプレックス。本作は、彼の一連のコメディ作品と表裏一体のように見える。アレンの映画にはコンプレックスを持つ人がよく登場する(アレン自身がそういう役を演じることが多いが)。コンプレックスを隠そうと、あれやこれやと努力して空回りしたり、とことん自虐的になって笑いをとる。時には、コンプレックスから上流階級やインテリなどをユーモアたっぷり強烈に皮肉ったりもする。しかし本作では、コンプレックスを笑いに昇華させるのではなく、劣等コンプレックスが招く家族の不協和音を、抑制的で冷ややかな世界のなかに表現した。完璧な母と、息苦しさを感じている父、母に愛されたくて、でも母のように完璧になれず、劣等コンプレックスに傷つき、苦しんでいる娘たちの物語である。
interiorには、室内のほかに、"内面の"という意味がある。インテリアデザイナーの母にとっては、家族も、家の調度品と同じ。花瓶を寸分違わぬ位置に配するように、家族に対しても自分の趣味に染まることを求め、内面(interior)までも支配し、自分がデザインした家庭という世界に完璧に配置しようとする。調度品であれ、家族であれ、調和の乱れは一切許さない。この完璧な母は、白、グレー、黒などの無彩色で表現される。洗練されているが、冷たい。一方、父の再婚相手は、母が最も軽蔑するような世俗的楽しみを謳歌している女性で(この辺にアレンらしい皮肉も感じるが)、豊満なボディ、色とりどりの原色を使う。下品だが、生命感にあふれて躍動的。海に入水自殺する母を追いかけて、溺死しかけた次女が、赤いドレスの新しい母親に人工呼吸をしてもらい、息を吹き返す。母を愛するゆえに逃れたくても逃れられなかった母の世界から解放され、新しい母によって命が吹き込まれる。家族の崩壊と再生を意味するのだろう。母の葬儀が終わった後の、娘たちのどこか晴れ晴れした表情が印象的だった(DVDケースの写真)。
家族の内面的な確執をテーマにしている割には深みがない。愛が深くなるほど憎いという感情は、人間のなかで最も複雑で説明しがたい領域だと思う。しかし、人物のキャラクターが型にはまっていて、単純なため(コメディなら良いが、シリアスなドラマには不向き)、夫婦、母娘、姉妹間の確執が、論理的に整然と理解できてしまう。上手い表現が見つからないが、余白がない感じ。この整然とした冷たいトーンは、私は決して嫌いではないが。
父の再婚相手役のモーリン・ステイプルトン。このアクの強さ、どっかで見たなぁと思って、ググってみた。『レッズ』でアカデミー賞助演女優賞?。そうだ、思い出した…ウォーレン・ベイティ演じる主人公の友人役に、こんなアクの強い女性がいましたっけ。ベイティの恋人役がダイアン・キートンだったし…偶然だけど、キャストがこの映画と被ってるなぁ。

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「U・ボート」(ディレクターズ・カット版)  1981年  西ドイツ

監督;ウォルフガング・ペーターセン
出演;ユルゲン・プロフノウ,ヘルベルト・グレーネマイヤー ,クラウス・ヴェンネマン ,他
2007年12月30日  DVD  病院ごろ寝シアター

dvd 第二次世界大戦下、U96が出航した。艦長や機関長など数名を除けば、あとは実戦経験のない若い兵士たち。若者たちは意気揚々と出航するが、過酷な現実が待っていた。元は全6話のテレビシリーズ。映画はこれを編集して作られた。「潜水艦ものにハズレなし」とは言われるが、本作はその最高峰であり、戦争映画としても名作である。(Uボートについては、下のメモを参照)。
潜水艦、狭っ!。臭っ!。こんな書き出しだと、名作?と疑われそうだが(;^_^A 、まず、このリアリティこそが迫力と緊張を生む。他の潜水艦映画では、乗員がこざっぱりした制服を着て、作戦を練っているが、そんなの嘘っぱちだと言うことが分かる。考えてみれば、潜水艦は徹底してスペース節約的に設計されており、そこに何十人もの乗員(Uボートは約50名)が何ヶ月も生活する。機関室は油まみれ。風呂なし。湿度も高い。汚くならない方が不思議だ。無精ヒゲが生え、服はよれよれに汚れ、パンは黴びだらけ…、現実が匂い立つよう。そんな男たちが、「アラーーーム!」のかけ声とともに、一人がギリギリ通れる通路を走りまくり、カップや皿は散乱し、その間をカメラが縫うように動いていく。音へのこだわりも半端じゃない。配置につけば、肩寄せ合って息を潜め、ピコーンピコーン…というソナー音だけが響く。敵艦のスクリュー音が近づいてくる音、遠くで爆雷が着弾する音、水圧で艦が軋む音…逃げ場のない海のなか、否応なく緊張は高まる。
潜水艦が、他の戦闘と決定的に違うのは、生きるにせよ、死ぬにせよ、運命はみな一緒というところにある。多くの潜水艦映画が"作戦"を中心に展開されるのに対して、本作の焦点は運命を共にする人間にある。格好良くもなければ、完璧な人間もいない。艦長の判断が全員の命取りになることもある。その艦長でさえ、苛立ったり、情に動かされ、判断を誤りそうになる。ベテランでもパニクるし、「極限状況に身をおきたい」などと言っていた乗員は、実際の極限状態に何も出来ず、震えるしかしかない。一方では、心ここにあらずだった機関長が、不眠不休でボロボロになりながらも、艦を修理をする。そこには、戦場を知らない上層部の理不尽な命令に従わねばならず、死に怯え、それでも僅かな可能性を見いだして、生き延びようとする泥臭い人間だけがいる。他の戦争映画のように、派手な戦闘シーンや、涙を誘うヒューマンドラマもないが、それだけで反戦のメッセージが伝わってくる。
ラストは衝撃だったが、後から考えると、狙いすぎで、取って付けたような感じがしないでもない。しかし、その意図は分かる。絶望的な状況でも必死に生きようとする人間の命を、いともたやすく奪ってしまうもの。それが戦争だということなのだろう。
元テレビシリーズと知って納得した。このディレクターズ・カット版は209分!あるが、1本の映画にしては小さなエピソードを詰め込みすぎて、やや冗長に感じたからだ。もっと思いきってカットしたオリジナル劇場版(135分)か、でなければ、じっくりと全6話の完全版で見た方がいいかも…。また映画は、テレビの4:3の画面を、上下を切って横長のビスタサイズ(16:9)にしているので、それが潜水艦の閉塞感、圧迫感をより一層感じさせる効果を作りだしているように思う。とにかく画が窮屈。
日本の戦争映画は、お涙頂戴的ドラマが多く(なかには名作もあるけど)、なぜ、戦場の過酷な現実を冷徹に見据えた映画を作れないのかと思う。敗戦国だから作りにくい事情もあったかもしれない。でもドイツは、80年代にはこれだけの映画を作った。この違いはどこにあるのだろう。近々、日本の潜水艦映画が公開されるらしい。見ていないので内容については何も言えないが、戦争映画に玉木宏みたいなイケメンを出しちゃダメだよ…と思ってしまう。戦争映画に"格好良い"は、いらないんです。

Uボートに関するメモ  長文ですf(^ー^;
Uボートはドイツの潜水艦。第一次世界大戦、第二次世界大戦で使用された。戦争では、敵国の物資補給を絶つための輸送船攻撃も重要な作戦であった。本作でも、Uボートがイギリスのタンカーを攻撃するシーンがあるが、軍用船だけでなく、タンカーや工業資源などを輸送する非武装の民間商船も攻撃対象であった。輸送船攻撃には、見つかりにくい潜水艦が適している。連合軍は、Uボートの輸送船攻撃に苦しめられ続けた。特に、イギリスのような島国の場合、海運での輸送を絶たれてしまうと、たちまち物資不足に陥るからである。1942年前半6ヶ月だけで、Uボートによるアメリカの喪失船舶は580隻にものぼった。しかし、1942年頃からアメリカによるUボート対策が本格化した。駆逐艦を増産して、輸送船を護衛する護送船団を編成したほか、ソナー、レーダーなど対潜水艦用機器開発、暗号解読、Uボート攻撃専門の航空機部隊など、短期間のうちに次々と手を打った。潜水艦は見つかりにくいのがメリットなのであって、レーダーや暗号解読などで位置を捕捉されるようになると、形勢は逆転する。潜水艦は駆逐艦や航空機など、上からの攻撃に対しては無防備で、(本作でも描かれているが)限界まで深く潜って隠れるしかない。アメリカのUボート対策が本格化すると、Uボートは逆に攻撃される立場になった。しかし、ドイツ軍は連合軍兵力を海上に引き留めておくために、Uボートの出撃を続け、映画冒頭の字幕にあるように「4万人のうち3万人」が帰ってこなかったのである。
Uボートに関係なくなるけど、この続き。連合軍は、Uボートの作戦を真似して、1942年頃から潜水艦による日本輸送船への攻撃を強化しはじめた。イギリス同様、日本も島国で、しかも国内の資源は乏しい。日本は、石油、ボーキサイト(アルミの原料)、ゴムなどの資源を占領した南方から船で運んでこなければならなず、海上輸送は日本の生命線であった。しかし、日本は既に資材不足で駆逐艦も十分に生産できなかったため、攻撃が激しくなっても、商船にまともな護衛船をつけることすらできなかった。つまり、日本商船は丸腰同様で、アメリカ・イギリスの潜水艦、航空機の攻撃にさらされ、次々と沈没した。さらには、戦局の悪化によって、日本は制海権、制空権を失って、安全な航路と占領地域も失っていった。戦争末期には、輸送船が足りなくなり、漁船、機帆船までもが徴用されたほどであった。海上輸送が困難になるにつれ、戦地への武器食糧補給が出来なくなり、兵士は悲惨な状況に陥った。国内でも物資が極度に不足して、なけなしの石油や原料を殆ど戦争に振り向けたため、衣類など生活用品の生産はほぼストップし、国民の生活も困窮化していった。
意外に知られていないが、太平洋戦争期、日本が保有していた商船の約88%が沈没し、「Uボート」風に言えば、商船船員の約43%、6万人が帰ってこなかったのである。死亡率を見れば、海軍軍人の死亡率16%(戦死者47万3800人)、陸軍軍人23%(164万7200人)よりはるかに高い。商船船員は、国の要請で作戦協力したにも関わらず、民間人のため、軍人のような遺族への恩給もなかったと聞く。戦争で亡くなったのは、どこかの神社にまつられている軍人だけではないのである。

参考文献  :  NHK取材班『日米開戦勝算なし』(角川文庫)、大井篤『海上護衛船』(朝日ソノラマ文庫)。
データ  :  管理人/本川裕氏「社会実情データ図録」より引用。

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「奇跡の海」  1996年  デンマーク

監督;ラース・フォン・トリアー
出演;エミリー・ワトソン,ステラン・スカルスガルド,カトリン・カートリッジ
2007年12月29日  DVD  病院ごろ寝シアター

dvd 1970年代スコットランド。信仰が厚い保守的な人々が住む寒村。ベスも信仰厚く、そして無垢であった。ヤンと結婚するが、ヤンは油田へ出稼ぎに行かねばならない。ベスが、彼が早く帰ってくるよう神に祈ると、すぐに帰ってきた。大事故に巻き込まれ、動けない体となって。
自己犠牲的な愛をテーマとする監督だ。他の代表作は『ダンサー・ン・ザ・ダーク』、『ドッグヴィル』(未見)。キリスト教文化圏で自己犠牲と言えば、イエス・キリストなのだと思う。鞭打たれ、人々から石を投げられながら、十字架を背負ってゴルゴダの丘へと歩いて行き、処刑された。イエスは、自らの血を流し、命を犠牲にすることによって、神から心を背けることの罪深さを人々に教えたのだろう(キリストを罵り、処刑に追いやた人々に良心の欠片が少しでも残っているなら、磔のキリストに深い罪悪感と愛を感じるだろうから)。トリアー監督が描く自己犠牲には、このキリストの愛がバックボーンにある。
自己犠牲には普遍性があり、日本人にも分からなくないが、キリスト教文化圏と認識にズレがあると思う。日本の場合、自己犠牲というと、多くは「使命感」からであり、そのため「立派なこと」であり、「美しい」。いわゆる「美談」になってしまう。思いつくままに書くと、日本の戦争映画も、マンガの『鉄腕アトム』『ジャングル大帝レオ』にしても、クリスチャン作家である三浦綾子『塩狩峠』さえも。
しかし、ベスの自己犠牲は、だれからも理解されないどころか、社会から抑圧され、虐げられ、ボロッボロになって死んでいく。そこまでして、はじめて彼女の愛が報われるのである。子どもたちに石を投げられるベスも、処刑されるセルマ(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』)にしても、ヒロインの受難と犠牲は、キリストを彷彿させる。日本では、トリアー監督作品は「後味が悪い」とよく言われるが、信仰心に基づく自己犠牲の厳しさが、私たち日本人の理解を超えているからではないかと思う。自らを犠牲に、他者へひたすら注ぐだけの愛は、恐ろしく孤独で、辛く、そして深い。
ベスの自己犠牲を通して、信仰の本質も考えさせられる。ベスは、ヤンが助かると信じて、他の男たちと関係を持ち、罪を犯した。無垢で深い愛情から罪を犯したベスと、愛情ではなく、守らなくてはいけないという観念だけで、聖書の言葉を頑なに守り、ベスを追放した不寛容な村人たちと、どちらに天国の門は開かれるのだろう。
そして、もう一つのテーマとして、神の存在がある。困った時の神頼み教の私などは、不幸なベスを見ていると、まったく神も仏もありゃしねぇと思ってしまう(爆)。しかし、本作では、神は都合良く救いの手をさしのべる存在ではない。いつもベスと一緒にいて、彼女の背中を押してくれる存在。彼女は神に祈り、声色を変えて、自分自身で答えている。最初は、彼女が神の答えを妄想して、自問自答しているのだと思った。しかし、手持ちカメラが、だんだんと、知らない誰かが彼女を見ているような不思議な視線を感じさせる。最後のシーンを見た時、あれは神の視線だったのじゃないかと、ふっと思った。彼女は妄想ではなく、本当に神と対話していたのかもしれないと。彼女の無垢な心が、一層、そういう想像をかき立てる。船に向かう時、神と対話した後のベスが、迷いも後悔もない表情をしていたのが印象的だった。
エミリー・ワトソンは元々舞台女優で、本作が映画デビュー作。何かが憑依したような凄い演技を見せている。この作品で英国アカデミー賞主演女優賞ほか、数々の賞を受賞した。
カール・ドライヤー(見てないけど…汗)、ベルイマン、そしてラース・フォン・トリアー。信仰をテーマにする監督が、連綿として北欧から出てくるのは、なぜなんだろう?。ただの偶然なのかな。『ドッグヴィル』も、見てみたい。

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「リトル・ダンサー」  2000年  イギリス

監督;スティーヴン・ダルドリー
出演; ジェイミー・ベル, ジュリー・ウォルターズ, ゲアリー・ルイス
2007年12月29日  DVD  病院ごろ寝シアター

dvd 1984年、イギリス北部の炭鉱町ではストライキの嵐が吹き荒れていた。11才のビリーは、炭鉱夫の父と兄、祖母と暮らしている。父はビリーを強い男にするために、ボクシング教室に通わせていたが、ビリーはふとしたきっかけからバレエに夢中になっていくのだった。
イギリスは日本以上に階級社会だと聞く。労働者の子が、バレエダンサーなるのは想像以上に困難な道なのだろう。ビリー少年が壁を一つ一つ乗りこえて、夢に近づいていく姿は、見ていて清々しい。情熱とか、辛さとか、哀しさとか、言葉にならない心の底から湧き出る感情が、ビリーに壁をたたかせ、足をならさせ、ドアをたたかせ…、体の一つ一つに伝わり、ダンスという表現になっていく。そう「電気みたいに」!。ビリーの踊らずにはいられない気持ちを表現する演出、セリフが、心に響く。
しかし、私が一番印象に残ったのは、ビリーの周囲の大人たちだった。ビリーの父と兄は廃坑寸前の炭鉱夫、バレエの先生も挫折している。ビリーのように将来もない。だからこそ、ビリーの情熱と才能を育てたいと願うのだろう。その愛情には感動する。特に、父親はビリーのために、ある決断をする。兄を裏切る辛さ、でもビリーの夢を叶えたいという葛藤。だまって炭鉱に向かう父の背中に、理屈じゃない親の愛情が滲み出る。
大人になったビリーが、舞台袖でスタンバイしている。舞台はマシュー・ボーン振付け『白鳥の湖』。私は、お友達のSugarちゃんに誘われ、2005年のBunkamura公演を鑑賞している。この舞台を知る私は、少しだけ深読みしてしまう。マシュー・ボーン『白鳥の湖』は、男だけのダンサーによる革新的バレエだ。ビリーはクラシックバレエの王道からはみ出した挑戦的なダンサーに成長した。T-REXの音楽で、型にとらわれないステップを踏んでいたビリー少年にふさわしい舞台だと思う。
この大人のビリーを、イギリスを代表するバレエダンサーであるアダム・クーパーが演じたため、彼がモデルとの説も流れたが、どうやら違うようだ。ロイヤル・バレエ団で炭鉱町の出身者のダンサーは、フィリップ・モーズリー、ケネス・マクラミラン。脚本家が、この2人の話を元に創作したらしい(あやふや…)。

ちょこっと映画メモ サッチャリズムとイギリス映画
サッチャー(1979年-90年まで首相に就任)は、間接的にだが、イギリス映画のある潮流を作ったと思う。
70年代まで、イギリスは「ゆりかごから墓場まで」と言われる手厚い福祉国家だった。経済面でも、鉄道、石炭、電気、ガス、鉄鋼などの主要産業を国有化し、さらに雇用を維持するため地方の衰退産業には補助金を与えて保護した。高い賃金(イギリスは労働組合が強く賃金が下げにくい)と、生産性の停滞で、国営企業の赤字は膨らみつづけた。経済が停滞しても、インフレが進んでも、財政赤字が拡大しても、イギリスは福祉と雇用を維持しようとしたのである。
しかし、1979年にマーガレット・サッチャーが首相に就任し、次々とこれら「イギリス病」にメスを入れていった。福祉予算を大幅に削減し、財政赤字を立て直す。国営企業は民営化し、産業に対する保護を止める。規制を緩和して、外国資本を入れ、競争を促進する。そして、競争に耐えられない企業は潰し、生産性が高く優良な企業だけを残す。これらの改革に抵抗して、当然、激しい労働運動が展開したが、サッチャーは組合を弱体化させる制度をつくり、組合潰しを行っていった。こうした改革の結果、90年代以降、イギリス経済は立ち直ったように見える(ホントのところはどうなんだろうと思う…。)しかし、このしわ寄せを一番受けたのは、国営企業労働者や社会の底辺層だった。この層から失業者が大量に溢れ、頼みの綱の福祉は切られた。
そして90年代に入ると、80年代を舞台に、こうした社会底辺層に焦点を当てた映画が次々と登場した。サッチャリズムを真面目な左翼思想から批判した、ケン・ローチの『ある鉄道員の物語』、中流階級へのアイロニカルな批判が感じられるダニー・ボイル『トレイン・スポッティング』。そして『リトル・ダンサー』、『ブラス!』、『フル・モンティ』、『キンキーブーツ』など、衰退産業で働く人々が困難な状況に立ち向かう、前向きな作品。つい最近も『THIS IS ENGLAND』が公開され、この潮流はまだ続いている。
私はサッチャーの政策を支持しないが、政治家として実は尊敬している。日本の女性政治家のように、主婦の視点、消費者の視点とか、地域密着とか(重要だけどね…(^^ゞ)、女性であることを「売り」に、票集めなんかしない。国政について一貫した明確なビジョンを示し、国の再生をどうするか真面目に考え、そのためなら全国民を敵に回すような政策も厭わない。日本では、どうしてこういう女性政治家が出てこないのだろうと思う。
つうか、男にもいないか…。ヽ(´・`)ノ

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