「CODE46」 2003年 イギリス

監督;マイケル・ウィンターボトム
出演;ティム・バートン,サマンサ・モートン
2007年6月?日 オンデマンドTV 自宅ごろ寝シアター

近未来SFラブストーリー。管理され安全な都市に暮らす人々と、砂漠化が進んだ「外」に放置された人々。移動は制限され、都市間の移動には「バベル」という許可証が必要だった。バベル偽造調査のために調査官が上海に向かい、マリアと出会う。
評価が分かれる作品である。SFとはいえ特別な舞台装置を使っているわけではなく、現代の上海を舞台に小物などを工夫しながら、それっぽく見せている。未来都市でアジアを意識している点では「ブレード・ランナー」、管理社会、遺伝子操作という点では「ガタカ」とかぶる。SFとしてはもの足りないし、納得できないところもある。が、ラブストーリーとしては、小さくキレイにまとまった佳作だと思う。映像も音楽も美しい。
古典的なラブストーリーだ。いつの時代も、恋する気持ちは抑えられないけど、恋は完全に自由じゃない。身分だったり、世間体だったり、事故で記憶喪失になって実は兄妹かもしれなかったり…(^◇^;)。本作品では、ふたりを引き裂くものが遺伝子操作、管理社会という未来っぽい小道具になっているだけ。ただ、どんなに管理されようが、記憶を消されようが、惹かれあわずにいられない気持ち、でも、"愛してる"だけじゃ越えることのできない壁の高さや、恋の切なさが、ひんやりした冬の空気のように沁みてくる。フィクションで、あり得ない話だけれど、恋した時のそういう感覚だけは、何だかリアルに伝わってくるんだな。それが、ティム・バートン、サマンサ・モートンの"2大さびしんぼう"の共演だから、もう切ない、切ない。サマンサの「会いたい」という、ただそれだけの最後のセリフ回しが良い。彼女の言葉にならない、いろんな思いがこめられているような感じで響いてくる。
本筋からはちょっと外れるけれど、上海が舞台で、都市から追放された人々というのは、現代の中国を思い起こさせる。貧富の格差が大きく、豊かな暮らしは都市にしかない。しかし、13億の人口が都市へ流入すると、都市経済自体が大変なことになるので、農村戸籍の人々は都市への移動が厳しく制限されている(都市の労働力需要が多くなって、最近は緩和されているとは聞くけれど)。「バベル」はSFでも何でもない。現実にある。

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「パリ・ルーヴル美術館の秘密」 1990年 フランス

監督;ニコラ・フィルベール
出演;ルーヴル美術館で働く人々
2007年6月?日 録画 自宅ごろ寝シアター

ドキュメンタリー。ルーヴル美術館で働く人々、学芸員、修復する人、美術品を搬送する人、清掃員、警備員、写真家、電気技師、庭師、コックなど1200人を映し出す。
17年前の映画だが、「ダ・ヴィンチコード」のヒットで今頃、急浮上。説明、ナレーション、インタビュー、音楽などは全くなし。働いている人の日常をカメラがひたすら追っているだけだが、これがなかなか興味深い。私たちは、整然と展示されている美術品しか知らない。しかし、その水面下では、バタバタと足を動かして、一生懸命に働いている人々がたくさんいて、それはおおよそ芸術的とは言えない日常的で、地道な作業だ。また、この映画に出てくる美術品は、だれもが一度は何かで見たことがある人類の遺産というべき作品ばかりだが、搬送中だったり、展示前に床に並べられチェックされていたり、補修中だったり、暗い保管庫に所狭しと並べられていたり。かしこまった展示とは違った角度から美術品を見られるのも、面白い。でも、美術に関心のない人は、淡々としすぎていて、ちょっと飽きるかも…。
いつか、パリの美術館めぐりをしてみたいなぁと思う。一緒に行ってくれる人、募集中。

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「ブレードランナー」ディレクターズカット版,1992年(初公開は1982年) アメリカ

監督;リドリー・スコット
出演;ハリソン・フォード,ショーン・ヤング,ルドガー・ハウアー,ダリル・ハンナ
2007年6月 シネマクラブ上映会

2019年LA。植民惑星からレプリカントが脱走し、地球に潜入した。人間に抵抗するレプリカントを抹殺するブレードランナー、デッカードが呼び出される。SFハードボイルドアクション。原作はフィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。
最初に飛び込んでくるのは、雑然としたアジアンな未来都市。狭い路地に屋台が建ち並び、巨大スクリーンには日本髪の女性のCM。酸性雨が降りそそぐ陰鬱な空。いわゆる西洋の近代文明をもっと整然無機質にした定番の未来都市イメージガラリと変えた。80年代の日本経済の勢いや中国の人口増加なんかを考えると、LAがあんなアジアな都市になっても全然おかしくないのだが、だれも考えたことがなかった(今では珍しくないが、大体はブレランの真似だ)。これだけでもこの映画は評価に値する。
アクションシーンも、不意打ちで襲い襲われる緊迫感、殴る蹴るのズシッとした重さや痛みが伝わるような演出の巧さ。さらに目を奪われるのは、身体能力が異常に高いレプリカントたちのしなやかで強靱な動き。アクションにキレやスピード感が出るだけでなく、カメラもレプリカントの視点はデッカードを見下ろすように、デッカードの視点はレプリカントを見上げるようなアングルにして、恐怖感もあおる。人間vsレプリカントだが、痛さ、恐怖というところで、みょうに現実味があるのが不思議。
監督リドリー・スコットは、他の代表作でも言えることだが、エンターティナーとしての才能に秀でていて、登場人物の感情などをあまり小難しく考えない。この上映会のために解説を書いたKさんは、監督のこうした才能を、愛情をこめて「馬鹿だけど、天才的に良い映画を作る」と言っていたが、もの凄く腑に落ちた。人間は便利な道具としてレプリカントを創った。長年、生かすとやっかいだから、4年でお払い箱にする。レプリカントは、その悲しさ、怒りを人間に分からせたい。このレプリカントのシンプルな感情を、アクション、短いカット、セリフのなかに、執拗に、時には感動的な演出で表現する。それだけのことだが、レプリカントの深い悲しみ、人間の傲慢さ、存在する意味など、何か深いものを考えさせられてしまうのである。レプリカントのロイが、デッカードを助けたのはなぜか。いろいろ議論されるところだが、私は、デッカードを殺せばロイの怒りや悲しみを知る人はいなくなるからだと思う。ロイの最期のシーンとあのセリフは泣けるー(T-T)。
そして、ロイ役のルドガー・ハウアーの存在感。何か深いものを考えさせられると書いたが、それはルドガー・ハウアーの演技によるところも大きい。彼の魂を象徴するように、空へ飛び立つ鳩。それもルドガーの提案だったと言われている。確かに、脈絡もなく、突然、ロイの手のなかに鳩が出てくるので違和感はあるんだけれど、あの鳩があると、ないとでは、作品の深みという点では随分印象が変わるのではないだろうか。見終わった後、多くの人が思う…主役はハリソン・フォードじゃなくて、ルドガー・ハウアー。ハリソン・フォード作品のなかでも、私は本作が一番好きだけれど、やっぱりルドガー・ハウアーに負けちゃってるんだよな。ついでに言うと、ショーン・ヤングも美しい女優だが、最近は、女優より奇行で話題になることが多い…。

補足:「ブレード・ランナー」のバージョンについて
この作品にはいくつかのバージョンがある。アメリカ劇場公開版、インターナショナル(完全)版、ディレクターズカット版、そして昨年出されたファイナル版である。
最初のリサーチ試写で難しすぎると不評だったため、初公開版では残虐な暴力シーンをカットし、ハリソン・フォードの説明的ナレーションと、ハッピーエンドシーンを加えた。次のインターナショナル(完全)版も、カットされた残虐シーンが復活しただけで、初公開版をほぼ引き継いでいる。しかし、監督は不本意だったようで、92年にディレクターズカット版が公開された。これは、最初のリサーチ試写版に戻したと言われており、旧バージョンとの一番の違いは、ナレーションがなくなり、ハッピーエンドシーンがカットされたこと、意味深なシーン(デッカードがユニコーンの夢を見るシーン)が加えられたことである。リドリー・スコット監督の感性に、10年経ってようやく映画関係者、観客が追いついたということだと思う。ファイナルカットは未見だが、スタントマンバレバレなど酷いシーン、撮影ミスなどをデジタル処理で修正したらしい。20年以上にもわたって納得いくまで修正するのは、監督も本作に思い入れがあるのだろう。
私は、インターナショナル(完全)版を劇場で、ディレクターズカットをDVDで鑑賞した。ディレクターズカットの方が好きだし、完成度も高いと思う。インターナショナル版は、やっぱりラストシーンが酷い。ナレーションがなくても分かるのに逐一言葉で説明し、大自然へ逃亡ってオチも安直だ。だいたい酸性雨ザーザーの未来都市、大金持ちタイレル社の社長さえ人工の動物しか飼えない時代に、あんな広大な自然が残っていること自体、矛盾ではないか。このラストシーンは、キューブリック「シャイニング」の未使用フィルムを拝借したのは有名な話で、本当に取って付けたラストであった。そんなこんなで、デッカードが、実はあの時、タイムスリップで逃亡していて、ホテルの管理人になって発狂したという都市伝説も噂されたヾ(--;オイオイ…(分からない人は「シャイニング」を見てください)。これらが、ディレクターズカットで全部なくなっていたのには、納得である。ファイナルカットも機会があれば、見てみたい。
ただ、この監督のエンターティナーとしての資質を考えると、初公開版がリドリー・スコットらしいのかなぁ…と、思わないでもない。

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「時をかける少女」 2006年 日本

監督;細田守
声の出演;仲里依紗,原沙知絵,石田卓也,板倉光隆
2007年6月?日 DVD 自宅ごろ寝シアター

真琴はある事件をきっかけに、タイム・リープ能力を持ってしまう。真琴には、仲の良い男子クラスメートの功介と千昭がいたが、千昭の告白によって3人の友情が変わりはじめる。真琴は、過去へ戻って、告白をなかったことにしようとするが…。
何度も映画化、ドラマ化されて、なぜ今更アニメ化?と思った。キャラクターも硬質的な体温を感じない顔立ちで、デッサンも微妙(鼻から下ちょっと長くて、あごがとんがってる…こういう絵はここ10年ぐらいの流行なんだけど、私はキライ)。公開された時は全く興味なし。しかし、なかなか良いという評価がじわじわと広がっていき、私も気になりはじめた。
中高生が関心を持つのは当然として、大林宣彦「時をかける少女」(主演:原田知世)を中高生の頃に見た世代に、是非、観てほしい。大林作品とは違った意味でノスタルジーを感じるはずだ。主人公が等身大で、共感が持てる。将来、何をしたいか分からない、大人になることに躊躇して、恋愛に踏み込めなかったり、大切なことを言えなくて後悔したり。今がずっと続くと思っていて、ありあまる時間を、カラオケするためやプリンを食べるためや、つまらない失敗をやり直すために使ったり。過ちに気づいたときには、手持ちのカードを使い果たしている。そうした青春の酸っぱい、切ない想いは、時代は違っても、だれにでも残るものだと思う。
"時代を経ても変わらないもの"をより印象づけるのが、主人公の叔母の「魔女おばさん」の存在。彼女は20年前、高校生の時にタイムリープした。名前は和子。原作・大林版主人公の名前であり、あの少女の20年後とも考えられる。大人は、まさに"和子"の視点で、主人公を、この映画を観ることになる。20年前の少女と比べて、今時の主人公は楽天的で積極的で、どこか相容れないものがある。でも、ふたりの青春の戸惑いや切なさは、同じ重さで心のなかに秘められ、大人へなるにつれ宝物のような時間になっていく。「魔女おばさん」が、美術品の修復を仕事としているというのも、時代を超えても、作品にこめられらた変わらない思い、残っていくものを象徴しているようでもあるし、また主人公の将来の姿を暗示しているようにも思える。
原作、今までの映画化、ドラマ化とは印象が違う、前向きで爽やかな「時をかける少女」が楽しめた。

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