「パフューム」 2006年 ドイツ・フランス・スペイン

監督;トム・ティクヴァ
出演;ベン・ウィショー 、ダスティン・ホフマン、レイチェル・ハード=ウッド
2007年3月24日 TOHOシネマ

パトリック・ジュースキントのベストセラー小説『香水−ある人殺しの物語』の映画化。18世紀のパリ。孤児グルヌイユは超人的な嗅覚を持っていた。彼は、ある晩、赤毛の少女から匂い立つ香りに魅せられた。その香りを追い求めて、彼は調香師になり、恐るべき凶行へ駆り立てられる。
グルヌイユは鋭い嗅覚を持つが、自分自身は体臭がまったくない。匂い=存在を暗喩する演出が、上手い。匂いがない彼は存在していないのと同じで、見捨てられ、少女たちに接近しても、だれもその存在に気かない。しかし、その彼が、臭いを手に入れるたびに、恐ろしいまでの存在を示すようになる。
映像が美しく、見どころは、やはり、総勢700人のあのシーンだろう。このシーンだけは、映像のなかに人々を酔わせてしまう香りを感じた。
しかし、それ以外は、あまりパッとしない映画だった。「香りを映像にした!。衝撃のラスト!」と、ピーコさんが宣伝してたけど、結末を知る人には、ぜんぜん香ってこないし、衝撃でもなかったな。香りの表現では、カメラをなめるように移動させ、匂いの源を追っていくという映像を多用していたが、あれも最近の流行で、工夫が感じられない。私は、ラストはもっと凄い映像を想像していて、あれが映像になったら見られるかな、ドキドキ…という感じだったけど、あっさりしたもんだった。ちょっとした脇役も、良い役者で固めているのに、個性や演技があまり活かせていない。
原作が面白いので、飽きずには見られるが、ちょっと期待はずれ。ストーリーを追うことに一生懸命で、イマイチ、盛り上がりに欠けた感じがする。

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「太陽」 2006年 ロシア・イタリア・フランス・スイス

監督;アレクサンドル・ソクーロフ
出演;イッセー尾形、佐野史郎、ロバート・ドーソン
2007年3月24日 下高井戸シネマ

神格化された昭和天皇ヒロヒトの孤独に焦点を当て、ボツダム宣言受諾から人間宣言を決断するに至るまでを描く。
良くも悪くも外国人から見たヒロヒト像。"良くも"の方は、昭和天皇自身が、神格化されていたことに対して、どう思っていたのかという視点。皇室を、神とか偉いとは思っていなくても、自分たちとは別次元に置いている日本人には、思いつかない視点ではないだろうか。戦争が終わっているのに、自分のために命を捨てる国民が大勢いる。考えてみたら、普通の感覚なら、相当の重圧だ。天皇のセリフに「日本人で生き残るのは、自分一人になってしまうのではないか」というのがあった。立場ゆえに、だれにも気持ちを打ち明けられない孤独を、控えめだけど、ひしひしと感じさせるセリフ、演出が良かった。
"悪くも"の方は、小さい頃から昭和天皇をテレビで見たり、また文献などで触れてきた一日本人としては、映画のヒロヒト像に違和感があることだ(私だけかもしれないが)。映画の天皇は、軍人や側近が、神として接することを複雑に思いながら、子供のように純真で、おちゃめな一面もあり、孤独も感じる"人間"として描かれる。それは、遠回しに、天皇は、罪もない一人の人間だけど、軍部や周りの人間によって支配者=神に奉られてしまった、と言っているようだ。しかし、私が昭和天皇の証言「昭和天皇独白録」や、数ヶ月前に発見された小倉侍従日記を読んだ限りでは、天皇自身が自発的、積極的に政治に関わっていた印象がぬぐえない。また、あの独特のしゃべり方や、そっけない仕草は、普通の人とは身分や育ちや違うことを演出しているような感じがして、戦時中は、神格化とまでは言わなくても、万世一系の正統な継承者であることを自ら演出していたのではと想像してしまう。
そんな違和感はあるにしても、映画作品としては素晴らしい。外国人監督が撮った日本の映画で、ここまで完成度の高いものはないと思う。未だに「SAYURI」「ラストサムライ」のように、西洋人のイメージで作られた、日本人が見るとオイオイ…とツッコミどころが満載な作品がある。ところが、この作品は日本人が見てもリアルだ。徹底した考証を行っていることが伺える。衣装、建物、天皇が使うペンから紙まで本物っぽい。映像も、ちょっと黄ばんだ、抑え気味の色彩で、時代の雰囲気を見事に表現している。そして、いちばんリアルだったのは、尾形イッセーの演じた昭和天皇。しゃべり方、姿勢、表情などの外見が似ているというだけではない。特別に扱わてきた人の浮世離れした、ちょっとズレた感じも表現していた。凄い。
同時期に「ヒトラー 〜最期の12日〜」も公開された。これも、戦争責任には触れずに、ヒトラーの人間像を描くという作品であった。「ヒトラー」は世界的にそこそこヒットしたものの、抗議、賛否両論が巻き起こった。さらに「太陽」は、日本では、公開さえすったもんだで、ひっそーり、地味ーに上映されたされた。そこに、歴史になりそうで、歴史には出来ない問題がまだ残っていると感じた。

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「麦の穂をゆらす風」 2006年 イギリス・アイルランド・ドイツ・イタリア・スペイン

監督;ケン・ローチ
出演;キリアン・マーフィ、ポードリック・ディレーニー、リーアム・カニンガム
2007年3月23日 パルコ調布キネマ

ダミアンは医者になる夢を捨て、兄とともにアイルランド独立のためのレジスタンスへ身を投じる。1922年イギリスとアイルランドは講話条約を結ぶが、条約内容の賛否めぐって、レジスタンスは分裂し内戦へと向かう。それは、ともに闘った仲間へ銃を向けることを意味した。
この監督は、好みが分かれる監督だ。抑制した演出、事実をのぞき見しているような冷徹なカメラ。真面目な左翼主義的思想を持っており、それを色濃く反映したメッセージ性の強い映画をつくる。娯楽映画が圧倒的主流になるなか、こうしたスタイルに徹し、しかも世界的に評価されている監督は、今やケン・ローチぐらいだろう。
同作品も、最近、私が観た映画のなかでは印象に残る。ただ、"ローチらしくない"部分があり、そこだけが浮いてしまった感じがした。一つは、基本線は冷徹なローチスタイルなのに、なぜか、いくつか重要なシーンで感傷的な、ありきたりの演出がなされたこと。でなければ、主演のキリアン・マーフィの感情的な演技が、ローチのスタイルにあっていないのかもしれない。二つめは、特に後半、監督の左翼的な政治思想を、登場人物に代弁させるセリフ、シーンが過剰であったこと。今までの作品ではテーマや物語から監督のバックボーンが伝わるという感じだったが、この作品では流れを遮り、焦点がぼやけさせるぐらいの執拗さを感じた。
20年代アイルランドを舞台に借りているが、そこから考えさせられるメッセージは現代的だ。この映画で描かれるのは、単に時代に翻弄される恋人や家族の悲劇にとどまらない。「自由」「平穏な暮らし」というささやかな望みが、国家により大儀や理想にすり替えられ、人を殺すことが正当化される。主人公が自問自答するように、国家や理想といった空虚なものが、家族の絆や生活を守るということ以上に、命をかける価値があるものなかどうか。また、他国・民族を支配することは、独立で解決という単純なことではなく、とてつもない深刻な傷跡を残す。むしろ、独立後の方が、国としての舵取りが難しく、内戦が起きる場合が多い。内戦は、他国との戦争より悲惨だ。家族、兄弟、友人で殺し合う。他国・民族の支配は、独立後も百年、二百年、その国を苦しめることになる。そうした国家の大儀や、理想によって正当化される人殺し、独立後の内戦というのは、20世紀に入ってから絶えることがなく、むしろこの数十年間でひどくなった問題だ。ケン・ローチは、今なお、他国をどうこうしようという国があることに対して、厳しい目を向けているのだと思う。

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「フラガール」 2006年 日本

監督;李相日
出演;松雪泰子、豊川悦二、蒼井優、山崎静代、岸辺一徳
2007年3月23日 DVD自宅ごろ寝シアター

常磐ハワイアンセンター誕生物語を、フラダンサーにスポットを当てて描く。昭和40年、福島県の常磐炭鉱。閉山を迫られた会社は、レジャー施設常磐ハワイアンセンターの準備を進めていた。炭鉱の娘達をダンサーにするために、元SKDのまどか先生がやって来る。
炭鉱閉山という辛気くささを払拭して、前向きで、明るい娯楽映画にしたかったんだろうな。その意図は分からないでもない。しかし、ヒットした映画が良い映画とは限らない。
まず、脚本演出がベタ。現実味のないお涙頂戴のエピソード、大げさな演出の連続投下。そのため、事実をベースにしているのに、全体的に嘘くさく、リアリティがなくなってしまった。重さを置くところが、基本的に間違っていると思う。この映画の基本線は、ダンサーという夢を追いかける若い娘と、堅い仕事をしてきた大人たちの無理解、反対だ。それは母親が娘の選択を受け入れた時のセリフにもよく表われている>「仕事とは命をはるものだと思ってきたけれど、明るく笑顔を振りまく仕事があってもいい」。これでは、芸能界に憧れる娘と反対する親という構図と、大して変わりない。
描くべきは、少女らしい夢や憧れでもなく、ましてや、まどか先生の借金でも、60年代ファッションでもない。炭鉱閉山をめぐる少女と家族の生活や、会社の選択だ。炭鉱閉山は働く人にとっては死活問題だし、会社にとっても180度違う事業への転換は、社運をかけた選択だ。なぜ、炭鉱の娘たちはダンサーになったのか。憧れだけではない。解雇=生活苦という切実な問題があったからだ。ダンサーに焦点を当てるのが間違いと言っているのではない。本題ではないにせよ、炭鉱閉山に揺れる人、会社の深刻さを、もっと丁寧にリアルに描くだけで、女優の見せ場にしか見えないフラダンスが、少女たちがどんな思いでダンサーになり、それを母親や町の人がどんな思いで見ているかを、より深みを持って伝えるものになったはずだ。まどか先生(松雪)、紀美子(蒼井)などの主演女優については、男風呂に入ったり、電車を止めてみたり、家出したり…現実味のない派手な演出をするわりには、炭鉱の描写のお粗末さ。坑道の入り口だけで、炭鉱で働いているシーンがない、炭鉱事故も薄っぺら。ついでに言うと、炭鉱で働く男に、トヨエツのようなチャラチャラした髪型もありえない…。いくらボタ山をリアルに再現しても、ストーリー、人物像の嘘くささは隠せない。
さらに、他ヒット映画のおいしいところだけをつまみ食いし、オリジナリティに乏しい。例えば「ブラス」、「フル・モンティ」、最近では「キンキー・ブーツ」。地場産業が衰退し、困った会社や住民が、まったく違った方向で、再生に向けてがんばる姿をハートフルに描く。これはイギリスが開拓した路線だ。この路線をそっくり日本に置き換え、「ウォーターボーイズ」以来の何かに打ち込む青春映画、ついでに「Always 三丁目の夕日」の昭和ブームにも乗ってみましたって感じがする。
文句ばかりになってしまったが、何も考えずに見るなら、そこそこ楽しめると思う。私が厳しい評価になるのは、この地域と時代に思い入れがあるからだ。私は福島出身だ。はじめての仕事で、いわき市が常磐炭鉱閉山後にどうやって町を再生させたか、関係者にヒアリングしながら調査したことがある。いわき市、スパリゾートハワイアンのように、炭鉱町で衰退を逃れた町、地方娯楽施設で生き残っているものは、数少ない。それだけ常磐炭鉱や町の人は、努力をしてきたってことだ。ヒットしそうなネタなので使わせてもらいました…みたいな、事実を軽視するような扱い方に、腹が立つ。

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「デスノート」前編・後編 2006年 日本

監督;金子修平
出演;藤原竜也、松山ケンイチ、鹿賀丈史
2007年3月17日 シネマクラブ第55回上映会

人気コミックの映画化。死神が地上に落とした1冊のノート。それは、名前を書かれた人は死ぬというデス・ノートだった。ノートを拾い、犯罪者を次々に殺す八神月(ライト)と、世界的な名探偵エルとの戦いがはじまる。
どうせお子様映画だろうとタカをくくっていた。しかし、最初から最後までスリリングな展開で、前後編あわせて4時間の上映があっという間だった。邦画で、非現実世界の娯楽映画というと、コメディや子供向けになってしまって、なぜもっと真面目に大人の鑑賞に堪えられるようなものを作れないのだろうと思っていた。しかし、日本でも、こういう映画を作る監督がいるのか…とちょっと見直した。ただ、ステレオタイプの親子愛の描き方とか、お涙頂戴的な後日談とか、邦画の伝統的演歌くささが残ったのは、ちょっと残念だけど。
脚本・脚色が良かったんだと思う。原作も読んだが、面白いけど、大風呂敷を広げすぎて、焦点がぼやけちゃったなと思っていた。しかし、映画では、原作の芯をくっきりさせるかたちで、余計なものを削ぎ落とし、次どうなるの?と、つねに期待させるようなストーリー展開になっている。ライトとエルの対決の結末も、原作とはチョット違うけれど、エルの性格からして、あれ以外には考えられないというぐらい、よくできていた。感心した。
俳優では、エル役の松山ケンイチがいちばん良かった。あのセリフの言い方。よく研究しているなーと思った。頭がいい人って、確かに、あんなふうに他人に口をはさませないようなしゃべり方するもの。おやつの食べっぷりもナイス。私がいちばん気に入っているシーンは、ういろう1本食いで、(^^)b グッジョブ!(笑)。藤原竜也のライトも、イメージとはちょっとズレていたけれど、ノート所有・非所有の時の演じ分け、狂気じみた演技はさすがに巧い。
観て損はない。原作を超えることができた数少ない映画だと思う。

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「ショコラ」 2001年 アメリカ

監督;ラッセ・ハルストム
出演;ジュリエット・ビノシュ、ジョニー・ディップ、ジュディ・デンチ、ヴィクトワール・ティビゾル 2007年3月 DVD自宅ごろ寝シアター

古い因習に囚われた村に、母娘がやってきてチョコレート店を開く。彼女がつくるチョコレートは、禁欲を美徳としていた村人の心をとかしていく。
みんな我慢しないで、幸せになって良いんだよってことを、寓話風につづった映画。
人間が社会生活を営むには、道徳や規律が不可欠だ。時代を遡るほど、人は貧しく、協力し合わなければ生きられないから、道徳や規律は厳しくのしかかる。西洋の場合、そうした道徳や規律が、禁欲を重んじるキリスト教によって与えられていて、支配階級が自らの地位を維持するために、それを積極的に利用して人々を縛ってきた、という面があるのだろう。この映画でも代々の伯爵家が、神父をあおり立てて、人々をガチガチの規律で固めている。しかし、時代は1959年。生活にゆとりができて、身分もなくなった時代には、そうした行きすぎた道徳、村の規律は、人々を必要以上に自制させ、幸せを縛るものになってしまう。慣習になってしまったものは、非合理的だと分かっていても、内から変えていくのは難しい。よそ者のヴィアンヌが、風のように村へ吹き込んできて、村人を解放する。彼女のチョコレートは、誘惑の象徴だ。ヴィアンヌは非キリスト教圏の血を受け継いだ流れ者という設定であり、彼女に、宗教的禁欲とは対立する価値観を持たせたのだろう。
恋すること(sex)、食べること。道徳や規律は、人間の本能からくる"卑しい"欲望を一番厳しく律する。しかし、ヴィアンヌのチョコレートは、そこに風穴をあけていく。美味しいものを食べ、恋にときめくごとに、村人の顔がだんだん明るく、美しくなる。私は、誕生パーティでチョコレート料理を食べているシーンが好きだ。食べるシーンをわざと卑しく、エロ〜い感じで描いている。でも、それが、すごぉーく美味しそうに見え、人生のよろこびを感じさせる。もう、よだれがでそうなぐらい。
面白いのは、人々を幸せにするヴィアンヌが、自分の幸せに気付かないことだ(この辺は「アメリ」にも共通する)。村人のチョコレートの好みは分かるのに、恋しい人のチョコレートの好みだけが分からない。彼女もまた、流れ者であった母親の価値観で、自らの幸せを縛っている。それを解くきっかけになったのは、流れ者の血には囚われていない娘、村人だったりする。ヴィアンヌが母の遺骨を風にばらまくシーンは、印象的だ。
脇を固める役者がスゴイ。怪優揃いだ。ジュディ・デンチ(「恋に落ちたシェークスピア」エリザベス女王、こんなチョイ役でアカデミー賞助演女優賞を受賞したのは、この人ぐらいだろう)、キャリー=アン・モス(「メメント」「マトリックス」)、レナ・オリン(「ナインスゲート」、「存在の耐えられない軽さ」サビーナ)、アルフレッド・モリーナ(「知らなすぎた男」←オススメ(^^)、「ダ・ヴィンチ・コード」司祭)、ピーター・ストーメア(「ファーゴ」、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」)。あまりにも強烈な個性に、あのジョニー・ディップが霞んじゃったよ。。。そして、ヴィアンヌ(ビノシュ)の娘役。何処かで見たなとは思ったんだけど、ヴィクトワール・ティビゾルという名前を見て、おどろいた。(@_@)/”えーーーー!あの『ポネット』の子かー。ポネットでは、まだ3、4才ぐらいだったかな。"ママの死"が理解できない女の子の役で、大人の目から見ると難しい役だけれど、この子は演技をしているんだろうか、素なんだろうかというぐらい自然体だった。本作でも、ビノシュと肩を並べる演技をしていた。
ラッセ・ハルストムの映画は、ほんわかした幸せな気持ちになれる。結構、好きだな。

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