「レッズ」   1981年   アメリカ

監督;ウォーレン・ベイティ
出演;ウォーレン・ベイティ,ダイアン・キートン,ジャック・ニコルソンほか
2007年5月?日  DVD,自宅ごろ寝シアター

実際にロシア革命を取材し、歴史的名著「世界を揺るがした十日間」(岩波文庫に入ってます)を残したジャーナリスト、ジョン・リードの生涯を、女性運動家ルイーズとの恋を中心に、壮大に描く。3時間超えの大作。
歴史に翻弄される男女を描いたスケールの大きい作品は、最近、パタッと見なくなった。本作が、今のところ、最後の恋愛大河ドラマかもしれない。このジャンルには「風とともに去りぬ」「ドクトル・ジバゴ」など名作があるが、恋愛に関しては情感豊かにドラマチックに描かれる。それに比べると、本作はちょっと異質だ。史実を忠実に描こうとする姿勢が感じられる。出会いも蜜月も別れも、彼らが選ぶ道は大胆だが、セリフや演出は日常の域を超えるドラマチックさはなく、事実をありのまま再現するような感じで展開される。これが3時間も続けば冗長になるところだが、それをあまり感じさせないのは、構成に工夫があるからである。シーンの合間合間に実際に彼らと交流があった人々の回想ドキュメンタリーが入る。ルイーズはすぐ人の物を欲しがるだの、彼らを知らなければ、話せない些細な事実ばかりだ。彼らを美化するコメントが、あまり使われていないのが重要だ。これがダラダラした流れを締め、また、美化されがちなロマンスを史実に引き戻し、人物像によりリアリティと深みを与える効果も持っている。好みの問題で言えば、私は本作のような慎ましい作風が好きである。大河特有のロマンチシズムより。この"さりげなさ"はベイティらしさかもしれない。彼の作品をあまり見てないので自信はないが、代表作「俺たちに明日はない」(制作・主演)も、「天国から来たチャンピオン」(制作・監督・主演)にしても、もっとカッコ良く、メロメロにできるのに、抑制が効いている。これらの登場人物の人生は、下手な演出をしなくても、それだけで十分ドラマティックなのだけれど。
史実に忠実という姿勢は、社会主義の描き方にも関わってくる。アメリカ映画に見られがちな"悪い体制"という視点があまり感じられない。かといって、社会主義に共鳴してるわけでもない。良いか悪いかはさておき、事実は事実として描きましょうという感じ。確かに、リードはボリシェヴィキに利用されるだけ利用され、硬直的な共産主義体制、官僚主義のなかで、彼の体も理想もボロボロにされていく。しかし、一方で、知識人の理想主義が机上の空論であることを、体を張って体制を守ろうとするボリシェヴィキに思い知らされるシーンもある。きれい事を議論しているだけの人間とは違う、革命を主導した人間の強さが描かれている。
リード役のウォーレン・ベイティは知識人らしさがあり、演技も上手いけど、優柔不断顔なので、信念を貫く男というにはちょっと弱かったか…。ダイアン・キートンは、進歩的で、サバサバした女がよく似合う。泣き崩れるより行動。強気の言動のうちに、リードへの一途な愛し方が感じられて良かったな。意外に良かったのは、ジャック・ニコルソン。前へ前へ出るイメージがある俳優なので、控えめな慎ましい演技をされると、かえってアレ?ホントにジャック・ニコルソン?って感じで、目を引く。どんな役でも目立つ俳優である。
ベイティはリベラル派で通っているらしいが、ハリウッド赤狩りに協力したエリア・カザンがアカデミー賞名誉賞を受賞したとき、立ち上がって拍手を送ったこともよく知られている。彼のデビューがエリア・カザンだったこともあるだろうけど、才能ある映画人の活動を封じた赤狩り協力者ということはさておき、純粋に監督としての功績は功績で評価しようってことなのなのだろうか。それもリベラルって言えば、まぁリベラルなんだけど…。

「レッズ」の時代
1990年代、社会主義国家が崩壊し、隠されていた粛正なんかの事実もボロボロと出てきて、社会主義は経済を停滞させ、官僚主義で、個々人の自由を奪い、反体制者を強権的に黙らせるとんでもない体制、という評価が固まっている。そういう今の視点で見てしまうと、登場人物の心情・行動を理解するのは難しい。時代背景を理解して見る必要があるだろう。
19世紀末から20世紀初頭、近代産業・企業が成長してきた資本主義国では、競争社会の歪み=貧困、労働者など弱者保護が問題になった時代だった。労働者保護(最低賃金・労働条件、労働組合、労働運動などの法的保護)が弱い時代は、賃金や労働条件の決定には資本家が有利だ。労働者は解雇されれば、生活できないから、低賃金・悪条件でも受け入れざるを得ないし、抵抗することもできない。また、競争原理の資本主義では、敗者を待つのは貧困しかない。しかし、本人の努力では、どうしようもないこともあるわけで、競争のスタートラインは平等ではない(貧しくて、まともな教育を受けられない人もいるかもしれない)し、病気だったり、年老いていたり競争に参加できない人々もいる。競争に負けて、失業したり、倒産して、そこに救済が全くなければ、再び競争のスタートラインに立つのも難しい。その結果、貧困に陥った人々を、競争社会だから仕方ないと放置していいのかどうかという、資本主義では避けられない問題が噴出した。こうしたなか、リードのように、社会主義思想に共鳴する知識人は、それほど珍しくはなかった。それどころか、資本主義体制を維持しようとする政府にとって、知識人たちが主導する社会主義運動は、少なからず脅威であった。事実、社会主義革命に至らなくとも、運動の高まりを背景に、この時期、資本主義国でも年金、失業保険などの社会保障や、労働者保護立法が整備されていくのだから。リードの理想は高かったが、夢想家ではなかったし、社会主義思想に根ざした運動も、今考える以上に現実味を持っていた。

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「アメリカン・ビューティー」   1999年   アメリカ

監督;サム・メンデス
出演;ケヴィン・スペイシー,アネット・ベニング,ソーラ・バーチ,ウェス・ベントレー
2007年5月?日  DVD,自宅ごろ寝シアター

広告代理店に勤めるレスター。郊外に家を持ち、妻と娘がいる。一見、幸せそうだった中流家庭の内実と崩壊をブラックユーモアたっぷり、アイロニカルに描きだす。アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、撮影賞を受賞。
アメリカン・ビューティは、妻が庭で育てている赤い薔薇の品種らしいけど、欲望を満たした果てに咲く成功の象徴なのだろう。庶民は、セレブの生活には手が届かない。でも中流階級の生活は真似できそうな感じがする。郊外の家、大手企業のパパ、仕事も家事も頑張るママ、チアリーダーチームの娘。実際にそういう暮らしができる収入や趣味教養があるならともかく、現実は、パパはリストラ、ママは事業不振、夫婦仲は冷え切って、娘はむっつり。自称中流の大半は、人から羨まれる生活や自分を良く見せようと取り繕い、外に向かって"そこそこ良い暮らしの幸せ家族"を必死にアピールしている…リハウスのCMみたいにさ。こうした、物質的に豊かになるなか、外見による判断が重くなっていくことを批判した作品は珍しくない。。同作品が深いと思うのは、じゃあ、仮面を完全に取ってしまえばHappyかというと、それは破滅だというところまで踏み込んでいることだろう。程度の差はあれ、無理して薔薇を我が身に飾らなければ、社会生活も、家庭も維持できない、生きにくい時代なのかもしれない。薔薇より、風に舞う紙くずの方が美しいことに気が付いても。
私は結構好きな作品だ。皮肉たっぷりだけれど、登場人物たちはみんな滑稽だけれど、憎めない。生きにくい時代に生きなくちゃいけない人への愛しさを感じる。皮肉と愛情のバランスが絶妙なんだな、ホントに。

「逆噴射家族」と「家族ゲーム」で考える日本の「中流」
驚くことに、日本では20年以上も前に、「アメリカン・ビューティー」に引けを取らない、自称中流を皮肉った秀作が登場している。石井聰互「逆噴射家族」1984年、森田芳光「家族ゲーム」1983年だ。
日本で、こういう作品が早くも80年代に登場したのは、必然だったと思う。70年代を通じて、今や生活必需品的な家電製品(冷蔵庫、掃除機など)に加えて、自家用車、クーラー、オーディオ、ビデオなど、生活をより便利に快適にする耐久消費財がほぼ普及し終わり、日本全国、どの家庭も似たような生活スタイルになった。ここまでは、みんなと同じモノを揃えたがった時代だ。そして、80年代に入って生まれた言葉が「一億総中流」。実際は「一億総中流意識」だったと思うが(実際、所得中流層って、私たちが想像する以上にハイレベルだ)。折しも、好景気からバブルへの道がちらつきはじめていて、みんなと同じモノが揃った次は、みんなと同じモノはイヤ!という消費へ向かう。家、身の回りのモノはもちろん、生活スタイルも、家族も、他人と差をつけたくなる。日本では中流意識だけが早く育ち、内実は中流を無理に気取ろうとした人々だったから、こうした作品が生まれたのだと思う。
シナリオ、映像表現、役者では「アメリカン・ビューティ」に負けるけれど、家族関係の希薄さ、中流幻影の派手なぶっ壊し方は、「逆噴射家族」、「家族ゲーム」の方が感傷を廃している分だけ、痛烈だ。また観たくなっちゃったな。

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「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」   1998年   イギリス

監督;アナンド・タッカー
出演;エミリー・ワトソン,レイチェル・グリフィス
2007年5月?日  オンデマンドTV,自宅ごろ寝シアター

難病により、若くして表舞台を去った天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯を、平凡な家庭を築いた姉ヒラリーとの関係を軸に描く。原作は姉ヒラリーと弟ピエールによって書かれた伝記。
ジャクリーヌの伝記映画としては中途半端だ。演奏家として成功するまでは、天才の苦悩が、凡人には思いもよらないエピソード、演出で描かれるが、病気発症後はエピソードをチョイチョイかいつまんだ駆け足の展開になっている。天才がチェロを弾けなくなった時、演奏家としての苦悩とはまた別の苦悩があると思うけれど、そこは凡人の想像範囲内の描き方。年譜を見ると、活動期間より闘病生活の方が長いが、映画では、病気発症後すぐに亡くなった印象すら与える。
とはいえ、原題「Hilary and Jackie」が内容を的確に表すように、ジャッキーの人生だけがメインではない。姉妹関係が丁寧に描かれ、姉妹を持つ者としては彼女らの感情が痛いほど分かってしまう。姉妹は秘密を共有でき、親よりも強い信頼関係がある。関心のベクトルも同じ方向。でも、何でも永遠のライバルになってしまう。才能や性格は同じではないから、自分にないものを欲しがって妬みもする。親が、子供ではなく「子供の才能」に愛情を注ぐから、なおさら愛と妬みは歪んだ形であらわれる。妹の才能を羨望し、劣等感を持つ姉ヒラリーは妹の言いなりに夫を貸しちゃったり。妹は妹で、チェロという才能がなくなったら誰も愛してくれないと思いこんだり、無条件に夫や子供に愛される姉を攻撃したり。チェロが好きなのに、チェロがジャッキーを不幸にする。ジャッキーにとっては愛しさ余って憎さ100倍だったんだね、チェロも、姉のヒラリーも。
ジャッキー役のエミリー・ワトソンは、とりたて美人でもなく、役者には少なからずあるカリスマ性というか、いるだけで人を惹きつける魅力というか、そういうのが全く感じられないが、印象に残る役者だ。彼女は、本作以外も、なぜか崩壊寸前の可哀相な役どころばかりで、それがまた憑依してる?みたいな演技をするから、痛々しくて、見ているのが辛い。監督〜、もういいから、彼女を幸福にしてあげて〜と言いたくなるぐらい。
本作で、ジャクリーヌ本人の演奏はエルガーの「チェロ協奏曲」のみ。あとは別のプロ演奏家の吹き替えみたい。ジャッキーの演奏は、ちょっと恐いと思うぐらい情緒的。私の好みではないが、やっぱり圧倒される。ジャッキーのチェロは、現在、ヨーヨー・マが所有してるらしい。彼の演奏も、ジャッキーには及ばないけど、ねちっこい。そう言えば、何年か前、ヨーヨー・マがタクシーにチェロを忘れて、大騒ぎになったけど、あのチェロか?。

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「皇帝ペンギン」(日本語吹替版)   2005年   フランス

監督;リュック・ジャケ
出演;皇帝ペンギン,日本語版ナレーション;石田ひかり,大沢たかお,神木隆之介
2007年5月?日  オンデマンドTV,自宅ごろ寝シアター

南極、皇帝ペンギンの生態を追ったドキュメンタリー。
ペンギン好きだけど、ペンギンのことを全然知らなかった。生殖と子育てに一生のほとんどを費やす生態に驚く。そして、種の保存のために、生死ぎりぎりの極限の環境を選びとる本能、進化の不思議に素直に感動した。ペンギンがカップルになって頬寄せ合ったり、身を削って子供を育てたりする姿を見ていると、ペンギンの仕草が人間らしいのではなく、人間も動物なんだな、そういう愛情は動物の本能として備わった愛情なんだなと思えてくる。言うまでもないが、映像は素晴らしい。
母ペンギン、父ペンギン、子ペンギンが、心の声をセリフとして語る演出がなされている。大半が自らの生態を説明するセリフなので、私はぎりぎり許せる。でも、やっぱり動物ドキュメンタリーで、擬人化は避けてほしいな。ペンギンが人間の言葉で、寒いよーとか、お腹減ったーとか、海は気持ちいいーと思ってるわけじゃないし、自然は自然のまま見せてほしい。実際、アメリカ公開版では、擬人化セリフを廃し、名優モーガン・フリーマンのナレーションのみで進行するらしい。こっちを見たかったな。

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「真昼の決闘」   1952年   アメリカ

監督;フレッド・ジンネマン
出演;ゲーリー・クーパー、グレース・ケリー
2007年5月?日  DVD,自宅ごろ寝シアター

保安官ケーンが新妻のエイミーと町を去ろうとしていた時、かつて刑務所に送り込んだ無法者が手下を引き連れ、復讐のために町へやって来るという知らせが届く。ケーンは町の人に応援を求めるが、誰も応じず、孤立無援で4人に立ち向かう。知らせが入ってから決闘終結までの1時間半、リアルタイムで進行する西部劇。
今のところ私の西部劇ベスト1位。「真昼の決闘」の田舎町は世の中の縮図だと思う。いつの時代にも通じる究極の選択を1時間半のなかで、単刀直入に問いかける>社会正義のために、命を懸けられるか?。多分、私も、その他大勢の町人たちのように、命や家族のために戦わないという選択をするだろう。故郷を捨てて逃げても、悪者を見て見ぬふりしても、生きていくことはできるから。それより大切なものはないと思うから。しかし、ケーンは新妻の説得を振り切って、たったひとり社会正義を選び、戦わない大衆に怒りをぶつけた。最後、ケーンが立ち去っていくシーンが印象的だ。名シーンだと思う。まるで、自分にも怒りをぶつけられているようで、ケーンをスカッとした気持ちで見送ることができない。後で調べて分かったことだが、ケーンの怒りは監督の怒りでもある。1950年代、ハリウッドでは赤狩りの嵐が吹き荒れたが、この映画には赤狩りを傍観した人々への怒りが込められているらしい。
画づくり、カット割りも惚れ惚れする。セリフなど言葉による説明が少ない。決闘が近づくにつれ、言葉はますます減り、画とカット割りだけで、緊張を高めながら物語をを展開させていく。特に、決闘の正午直前、カット割りがどんどん細かくなり、時計→遺書を書くケーン→時計→駅で親分を待つ手下たち→時計→エイミーのアップ→時計→町の人という、時計を挟んだクロスカット、正午の汽笛、町に降り立つ無法者、静まりかえった町にひとり残されたケーン、そして遠ざかっていくカメラ、この一連のシークエンスは見事だなぁと思う。
若妻役のグレース・ケリーはこれが本格的映画デビュー。完璧な美しさ。芝居はダイコンだけど、そんなの気にならなくなるくらい美しい。一方のゲーリー・クーパーは、グレース・ケリーが妻というより娘に見えるぐらいの年齢。だけど、年なんか気にならなくなるぐらい格好いい。それはそうと、最初のカットで若いリー・ヴァンクリフが出てきた時は仰け反るぐらいビックリした。精悍だなぁ。目立ってたけど、若い頃は、セリフもないゴロツキ役なんかやってたんだねぇ。

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「シベールの日曜日」   1962年   フランス

監督;セルジュ・ブールギニョン
出演;ハーディ・クリューガー、パトリシア・ゴッジ
2007年5月?日  オンデマンドTV,自宅ごろ寝シアター

インドシナ戦争で記憶喪失になったピエールは、父に見捨てられた少女フランソワーズ(シベール)と出会う。ピエールは父親と偽り、日曜日ごとに少女の寄宿学校へ面会に行くようになる。
純真無垢であることの美しさと痛々しさ。ピエールは記憶にかすかに残る少女を、シベールは父親的存在を、ぽっかり欠けたもの求めて、見えない糸に導かれるように引かれ合う。互いに孤独の者にしか分からない傷を癒してくれる大切な存在であって、恋愛の結びつきとはちょっと違う。けれど、シベールは早く大人になりたがって、大人の恋愛ごっこをする(シベール自身は「ごっこ」とは思ってないかももしれないけど)。大人だけど、心は半ば子供のピエールは、そんな少女にまっすぐに向かう。こうした純真さは、シベールは子供だからまだ許されるけど、見た目大人のピエールがシベールの他は何も見えなくなり、どんどん常軌を逸していく、その姿は痛々しく、切ない。
モノクロームの映像が詩的で美しい。アンリ・ドカエ撮影のこの映像でなかったら、これほどまで印象深い映画にはならなかったろうと思う。冬木立を歩くふたり、池に広がる波紋に映るふたり、霧に包まれて語らうふたり。日曜日の冬の公園という日常的な場がアンリ・ドカエの手にかかると、無垢で、はかなく、だれも入り込めないふたりだけの世界になる。アンリ・ドカエの他の代表作として、「死刑台のエレベーター」「大人は判ってくれない」「太陽がいっぱい」などがあるが、いずれも映像表現が高く評価される作品ばかりだ。今回、オンデマンドTVで視聴したが、スクリーンサイズが、ビスタ→4:3に編集されていた。映像が素晴らしいだけに、とても残念だ。
シベール役のパトリシア・ゴッジが愛くるしい。ピエール役のハーディ・クリューガーは、「飛べ!フェニックス」のエンジニア、戦争映画のイメージが強かったが、本作では繊細な演技が印象に残った。ハーディ・クリューガーのちょっと違う側面を見た感じ。
問題があるとすればタイトル。最後に、少女はピエールに本名がシベールであることを明かす。彼女はピエール亡き後、「もう私に名前はない。誰のものでもない」と言っているように、彼女にとって名前を教えることは、心をぜんぶ捧げるぐらいの重い意味を持つ。なので、観ている方も、彼女の本名が最後の最後に分かる方が、はるかにその重さが伝わってくると思う。原題も「Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray」なので、邦題の付け方の問題ではない。タイトルでネタバレっていうのは、どうかと…。

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「愛の嵐」   1973年   イタリア

監督;リリアーナ・カヴァーニ
出演;ダーク・ボガート,シャーロット・ランプリング
2007年5月?日  DVD,自宅ごろ寝シアター

ナチ将校だったマックス。過去を隠して、ウィーンでホテルのナイトポーターとして暮らしていた。そこに、かつて収容所で弄んだユダヤ人少女ルチアが指揮者の妻になって訪れる。
ナチズムを対象にする場合、単なるラブロマンスと違って、作り手がナチズムをどのように評価しているか、歴史的価値判断が求められる。そのためナチズムを描くには、それ相当の覚悟がいるのだが…。ナチズムに対する詰めが甘すぎる。この映画に登場する元ナチは、ナチであったことを知る証人を殺し、戦後も権力にしがみついて、おいしい地位で生きていこうとする。ナチの頽廃的で、腐った精神は、戦争が終わっても変わらないと言いたいのかもしれないけど。監督の頭のなかにあるナチのイメージ、妄想だけでナチを描いている感じで、現実味がない。時効なしの戦犯になった元ナチの戦後って、そんなにお気楽だったのだろうか?。人物設定も、教授だの、バレリーナだの、没落貴族だの、指揮者の妻だの…耽美派少女マンガレベル。
もう一つのテーマ。性愛はどうかというと、これも世間で言われているほど、衝撃でもなかったな。性愛をつきつめると破滅しかないというテーマは、日本にだって近松から渡辺淳一センセイ「失楽園」まで、いろんなバリエーションがある。その性愛が、収容所という極限状況、ナチとユダヤ人という絶対的主従関係のなかから生まれる、その舞台が舞台だけに話題を呼び、問題作になったということだと思う。現実問題として、ルチアのように、ナチに目をかけられたことで幸運にも生き延びた人は、例えば「ソフィの選択」のソフィのように、ものすごい罪悪感にとらわれて戦後を生きていく。ルチアの忘れ去るに忘れられなかった性愛だけに絞りこみ、ルチアの苦しみや葛藤が全然描かれていないのも、ただの心中ドラマの域を出ない作品にしている。
ただ、映像のみに限定するなら、金字塔的作品である。ナチ制服を着た中年男が少女をサディスティックに弄んだり、やせっぽちの少女がナチ軍帽に半裸姿で歌わされたり。当時、タブーを破っちゃったSM表現は衝撃だったろうし、今でも、SM的雰囲気を出す写真などに真似される(最近では安室奈美恵のジャケット写真がこの映画を彷彿させた)。それだけ長い間、影響力を持つ映像を作ったことは、評価できる。マックス役に、「ベニスに死す」マーラー役など微妙に歪んだところを表現するのが上手いダーク・ボガート、ルチアに可憐だけど動物的衝動を秘めた目をしているシャーロット・ランプリング。この二人じゃなかったら、失敗してたかもしれない。
昼メロのような、ぬか味噌くさい邦題を何とかしてほしい。原題の「The Night Porter」とかけ離れすぎ。

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「スイミング・プール」   2003年   フランス

監督;フランソワ・オゾン
出演;シャーロット・ランプリング,リュディヴィーヌ・サニエ
2007年5月?日  wowwow録画,自宅ごろ寝シアター

イギリス人、中年女性のミステリ作家。作家は編集者のすすめで、南仏にある彼の別荘へ行くが、突然、彼の娘だという奔放なジュリーがあらわれる。
予告では、ミステリのような宣伝をしていたけど、これはミステリではない。だから、謎をぶち撒けるだけぶち撒いて、回収せずに終わってしまうけれど、それをどう解釈するかを議論しても、あんまり意味がないと思う。!以下、ネタバレあり!。
謎をロジックで回収するイギリス・ミステリ(私は少なくともそういうイメージがある)のスランプ作家が、南仏の別荘のプール、部屋で見つけた女の色っぽーい服、日記?小説?とかにインスパイアされて、恋のときめきなんかもちょっと甦ってきて、ロジックでは説明できない欲情とか官能とか、もっと生々しい小説を創りだしていく過程を描いたのだと思う。同時に、自分も今まで無縁だったそういうものに目覚めていく。創作において、その舞台に自分を登場させて、妄想を膨ませることは、自然の成り行き。最後の1カットで、観客が現実だと思って見てきたものが、作家の現実と創作が入りまじったものだった"かもしれない"ことが示唆されるから、観客は混乱する。その監督の仕掛けが、見事なんだな。混乱しながら、作家の現実と想像の境界が曖昧になっていく創作の過程を追体験すれば、それでいいと思う。あの殺人は…とか、あの娘は…、母親は誰だとか…詮索するだけ、野暮ったい
オゾン監督は、女優に惚れ込んで映画を作るタイプかもしれない。女優の魅力を最大に引き出す作品を撮る。シャーロット・ランプリングのあの1シーンを撮りたいがために、この映画を撮ったのではないか、とさえ思う。彼女は「愛の嵐」のインパクトが強すぎて(ナチス軍帽、上半身裸、サスペンダーパンツ、革手袋)、他の出演作を見ても「愛の嵐」の影がちらつく。そのイメージを巧く利用した感じもする。シャーロットは、枯れちゃったように見えて、秘められた情欲、妄想がだんだん大きくなっていくというキャラに見事にはまった。逆に言うと、彼女の「愛の嵐」を知らない世代は、あのシーンの重みが伝わらないかもしれない。最初は、可愛いリディヴィーヌ・サニエがあまりに奔放に脱ぐのでちょっとビックリしたけど、シャーロット・ランプリングの1シーンにはかなわない。ヌードは若さやおっぱいの大きさじゃないの、脱ぐことの重さ、それが与える衝撃。オゾン監督が、同じくシャーロットを主演に撮った「まぼろし」も観てみたい。

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「クラッシュ」   2004年   アメリカ

脚本・監督;ポール・ハギス
出演;ドン・チードル,サンドラ・ブロック,マット・ディロン,ほか
2007年5月?日  wowwow録画,自宅ごろ寝シアター

白人、黒人、ヒスパニック、メキシコ、アジア、ペルシア…いろんな人種がひしめくLA。人種問題を軸に、小さな物語が絡み合って展開していく人間模様。2005年度アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞の三冠。最近、???のアカデミー賞のなかでは、納得できる受賞かな。
人種差別がテーマ。が、この映画では、他人を理解するという人間関係の基本が崩壊しているところに本質的問題があって、それが、差別が差別を生む人種差別という要素が加わると、とんでもなく助長されていくという構図がある。冒頭、ドン・チードル演じる刑事(良い!)のセリフが、映画全体を貫いて、重くのしかかる。「肩と肩がぶつかっても、心と心はぶつからない。みんな隠しているから」(うろ覚えだけど)。そうした荒んだ人間関係が、人種間ではもちろん、仲間、夫婦、親子兄弟でもさまざまな形で描かれ、人種問題にピンとこなくとも、人間関係の希薄さをを少なからず感じている現代人には胸がキリキリとする。絶望的状況ばかりではなく、逆に、他人の気持ちに寄り添うことができれば、根深い人種の壁も越えられることも最後の方で描かれ、ほんのちょっと救われた気持ちになる。個人的には、"透明マント"に(T-T)(T-T)(T-T)。
たくさんの登場人物がいるが、どの人間も善悪表裏一体で描かれているのも特徴だろう。映画を観ながら、こうした人間観も、映画の空気も、何となーくイーストウッドと似てると思った。監督ポール・ハギス、ぜんぜん知らなかったので調べてみると、本職は脚本家で、代表作は「ミリオンダラー・ベイビー」、「007カジノロワイヤル」、「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」…イーストウッド監督と一緒に仕事してるんじゃん。影響受けてるかもなぁ。
脚本家が自ら監督した脚本だけあって、脚本にとてもこだわりが感じられる。LAを舞台にした「グランドホテル」形式。範囲広すぎだけど(^^ゞ。登場人物、エピソードが多いが、人種という難しいテーマを織り込みながら、それぞれ等しく重い印象を持たせつつ、交錯して、キッチリと他の人物、エピソードにバトンが渡されていく。その構成力はスゴイ。ちょっと懲りすぎと思うぐらいよく出来ている。

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