「やかまし村の子どもたち」 1986年 スエーデン
監督;ラッセ・ハルストレム
出演;リンダ・ベリーストレム,アンナ・サリーン
2007年11月27日 DVD 自宅ごろ寝シアター
アストリッド・リンドグレーン「やかまし村の子どもたち」の映画化。「長くつ下のピッピ」などで知られる童話作家である。やかまし村は家が3軒並んだだけの小さな小さな村。6人の子どもたちは兄弟のように仲良し。リサの目を通して綴られる夏休みの生活。
特に盛り上がるストーリーがあるわけではないが、スエーデンの田舎を舞台に、子どもたちの夏休みのエピソードが楽しげに描かれる。夜の森に(といっても白夜だけれど)妖精探しに行ったり、頑固じいさんのところにお遣いに行ったり、納屋に泊まったり。大人にはどってことない事なのだけれど、子どもにとっては大冒険で、そこには子どもだけの世界があるんだなぁと思う。田舎に育った昔子どもの私は、毎日何をして遊ぼうかとワクワクした子ども時代は、スエーデンの短い夏のようにあっという間に通り過ぎ、大切な思い出として人生の糧になっていくことを知っているから、この6人の子どもたちを懐かしく、ちょっぴり甘酸っぱい気持ちで見守ってしまう。
子どもたちが自然で生き生きとしている。お前たち、演技じゃなくて、"素"で遊んでるだろ…。スエーデンの移ろいゆく短い夏の景色、北欧の田舎のライフスタイルも見どころ。同じシリーズとして「やかまし村の春・夏・秋・冬」がある。
「パンズ・ラビリンス」 2006年 スペイン・メキシコ・アメリカ
監督;ギレルモ・デルトロ
出演;イバナ・バケロ,セルジ・ロペス,マリベル・ベルドゥ
2007年11月30日 恵比寿ガーデンシネマ
1944年内戦下のスペイン。少女オフェリアは、レジスタンス鎮圧を指揮する軍人の義父がいる山奥へ母と移り住む。少女は、森の中の遺跡でパン(牧神)に出会い、地底にある王国の王女の生まれ変わりであると告げられる。そして、王国に戻るための試練を課された。
映画サイトなどで評価が高い作品である。義父は内戦とスペイン独裁の暗喩なのだろう。内戦・独裁による暴力が支配する現実と、義父に抵抗する少女のファンタジー世界が交錯しながら展開する。史実はあまり重視されてないが、戦争・独裁による悲惨な現実を、ファンタジーを対峙させつつ描くという、新しいファンタジーを開拓した。その点は、私も評価する。
最後のシーンで、あのパンズ・ラビリンスの世界は、実はぜんぶ少女の空想だったのかもしれないと思わせ、はっとさせられる。少女は、残虐な義父との生活を強いられ、拷問や虐殺を目の当たりし、母も病気だった。そうした現実の苦しみ、死さえも王国に帰るための試練だと、自分に言い聞かせるために空想した世界だったのではないか。救いようのない状況に置かれた子供は、現実から逃避するためではなく、受け入れ難い現実を自分自身に納得させるために、空想世界をつくるのかもしれない。ファンタジーだけど、見終わった後に感じるものは、とても現実的な悲しさだ。
ファンタジー世界の造形が素晴らしい。妖精、牧神、異形の者たちは、青ざめて色彩に乏しく、冷やかで、動きも石のように硬質的。今までの妖精や牧神のイメージを覆す。特に、第2の試練で出てくる怪物の造形、動きには驚かされた。凄い想像力。
とはいっても、手放しで評価できない面もある。賛否が分かれるのは、残虐シーンだろう。私は残虐なシーンを一概に否定しない。問題は、作品のテーマを伝える表現手段として、その残虐シーンが納得できるかどうかである。過剰な残虐なシーンを映画の「売り」にするような作品は嫌いだ。本作の残虐シーンは、私の価値観で判断すると、後者だ。敢えて書くが、顔面を刃物でグチャグチャ突き刺したり、口を裂いたり、体の原型をとどめないようなドロドロの拷問。残虐シーンに慣れてる私も、思わず仰け反ったよ…。独裁の暴力や残虐性を表現するのに、ここまで必要か?。本作はPG-12指定(12歳以下は保護者同伴による鑑賞)だが、私は、意味が見いだせない残虐シーンは子供には見せたくない。もっと抑制的でも、あるいは見せずに想像させる手法によっても、十分に表現できると思うのだが…。
「ブロークン・フラワーズ」 2005年 アメリカ
監督;ジム・ジャームッシュ
出演;ビル・マーレイ,ジェフリー・ライト,シャロン・ストーン,フランセス・コンロイ,ジェシカ・ラング,ティルダ・スィントン,ジュリー・デルビー
2007年11月26日 DVD 自宅ごろ寝シアター
ドンはコンピューターで財産を築いたが、何だか情けない、女ったらしの独身中年男。ある日、「あなたの息子が19才になります」と書かれた差出人不明のピンクの手紙が届く。探偵小説好きの隣人に促され、差出人を探すべく、昔の恋人たちを訪ねる旅へ。
好きだなーこのやる気のなさ(笑)。事業で成功して、女性と気ままに恋を楽しんできても、中年過ぎれば、2本線のジャージ姿で、ぼけーっとひとりテレビを見ているオッサン…。隣人は仕事かけもちの労働者だが、子だくさんで楽しそう。ことさら隣人を羨んだり、独り身の侘びしさを嘆いているわけではないけれど、困惑気味の乏しい表情、背中や歩く姿や…ドン役のビル・マーレイからただならぬ哀愁オーラがにじみ出て、可笑しさがこみあげてくる。
現代中年男版「舞踏会の手帖」といったところか。元恋人たちは、かつて一緒に時を過ごしたことが信じられないぐらい、ドンが理解しがたいところに行ってしまった。女性たちがみんなピンクの小物を持っていたり、最後に出てくる青年が2本線のジャージを着ていたり、何もかも疑わしいけれど、結局、息子がいるのかいないのかも分からない。人生は思い通りにいかない。若者なら泣いたり叫んだりするのかもしれないけど、中年のドンは人生そういうもんだよねと諦めて、でも心の片隅で何かを期待してしまう。私も中年にさしかかったからなのか、このドンの侘びしさが分かるなぁ。。。
私が20代だった頃、ジャームッシュは新進気鋭の若手監督で、何をしていいか分からない計画性のない若者たち、良くも悪くも思い通りにならない人生を描いて、やっぱり何をしていいか分からなかった若者の心をぐっとつかんだ。私は、好きな監督はと聞かれれば、必ず名前を挙げていた。そのジャームッシュも50才を越えて、主人公は、若者ではなく中年男になったが、あの頃と感性はちっとも変わらない。どんなダメ人生だって愛おしいと思わせてくれる感性。しみじみ、いいなぁと思う。ついでに言うと、エキゾチックな音楽のセンスも全く変わってなかった。
以下はちょっとした小ネタ。ドンがテレビで見ている映画は「ドン・ファン」。ドンのフルネームはドン・ジョンストン。映画のなかで「ドン・ジョンソン?」と名前を間違われ、笑われるシーンがあるが、ドン・ジョンソンはアメリカのロックシンガー&俳優で、女性とのスキャンダルが絶えない女ったらし。日本でも彼の当たり役「特捜刑事マイアミバイス」、「刑事ナッシュ・ブリッジズ」などが放映されているので、知っている人が多いかも(私もナッシュはよく見てたよ…、日曜の午後にやってた)。古今のプレーボーイにひっかけた小ネタ演出である。
「秘密と嘘」 1996年 イギリス
監督;マイク・リー
出演;ブレンダ・ブレッシン,ティモシー・スポール,マリアンヌ・ジャン・バプティストほか
2007年11月26日 DVD 自宅ごろ寝シアター
情緒不安定な中年女性シンシア。弟のモーリスは写真館を営んでいるが、子供がなく、シンシアの娘ロクサンヌをかわいがっていた。ある日、シンシアの元に娘だというホーテンスから連絡が来るが、会いにいくと黒人だった。
親子、兄弟、夫婦でも言えない秘密があって、隠すために嘘をつく。その"秘密"があまりに不幸な事であれば、大切な人の立場を思いやるがゆえに、なおさら話せない。けれど、いちばん理解してほしい人に言えないことは、本人が辛いだけでなく、誤解を生み、大切な人も傷つけてしまう。シンシアの情緒不安定やだらしなさ、モーリス妻の高慢さ、モーリスの腫れ物に触るような態度、意味をなさない表面的な会話や作り笑い。彼らを見ていてイラッとするのは、私たちも彼らの秘密を知らないからだ。不愉快な気持ちになったら、監督の思惑にはまったも同じ。それぞれが背負っている秘密の重さを知らず、誤解してしまう哀しさや、後悔を私たちも一緒に味わうことになる。
真実を知ろうとする黒人ホーテンスをきっかけに、家族の秘密が一気に明らかにされる。このシーンは本作の白眉。恐ろしいまでにリアルで、本当にどこかの家族の修羅場を見ているよう。秘密を知ることは、秘密を隠していること以上に、傷つけあうことでもある。特に、出生の事実を知ったホーテンスはいちばん傷ついたはずだ。モーリスは言う「傷があるなら、分け合えばいいじゃないか」。本作は、家族は、どんな深い傷も赦しあって乗りこえられるという希望を示しているように思えた。相手の人生に踏み込んで、衝突して、同じ重さで傷つかないと、隔てない人間関係なんて生まれない。それは誰もが理解している。しかし、昨今の人間関係は、家族のような大切な関係ほど、傷つき、傷つけるのを恐れて、迷惑かけないよう心配かけないよう、大切なことを秘密にして、それが優しさだと誤魔化そうとしている。私も含めて、このシーンに考えさせられる人は多いのではないだろうか。
これを脚本なしで撮影したというのだから、驚きである。シークエンス、構成に無駄がない。見終わってから反芻すると、日常会話すぎて意味がないように思えたセリフも、小さなシーンも、すべてが糸でたぐり寄せられるように繋がってくる。監督は、撮影前、俳優ひとりひとりと役柄について時間をかけて話し合い、俳優たちは自分の役柄になりきって、自分の言葉でセリフを言ったらしい。よくドキュメンタリータッチの映像演出でリアリティを出したり、意図的に日常会話的セリフを選ぶ監督はいるけれど、それはそれで作為が見えてしまう。しかし、本作の俳優たちのセリフ、仕草は、こうした作為的リアリティとはまた違ったリアリティがある。脚本がないということは、俳優自身が自分の役柄しか知らず、黒人の娘がいるとか、他の役柄の秘密を本当に知らなかった可能性があるわけで、それが、はじめて娘と会話する時のぎこちなさや、家族のイライラや焦燥感、修羅場のリアリティを生みだしたとも考えられる。シンシアの最後のセリフ「人生っていいわね」。セリフ自体は陳腐である。しかし、セリフというより、まさにシンシアの実感からふっと自然と出てきた言葉であり、ありふれた言葉だが、あの流れのなかに置かれると、人生の希望をじわっと感じさせてしまう力がある。1996年カンヌ映画祭パルムドール、シンシア役ブレンダは主演女優賞受賞。
「フライド・グリーン・トマト」 1991年 アメリカ
監督;ジョン・アヴネット
出演; メアリー・スチュアート・マスターソン,メアリー・ルイーズ・パーカー,キャシー・ベイツ,ジェシカ・タンディ
2007年11月24日 DVD 自宅ごろ寝シアター
1980年代。エブリンは中流家庭の良妻だが、夫婦関係や生活に虚しさを感じている。ある日、病院で老女ニニーと友人になり、彼女の昔話に夢中になっていく。それは50年前、南部アラバマ州でカフェを切り盛りしていたイジーとルイーズの友情の物語。カフェの名物料理が「フライド・グリーン・トマト」。
ものすごーく欲張りな映画。友情を軸に女性蔑視、DV、人種差別、女性の自立、自尊心、生きがい、死、孤独な老いなど、女の人生にまとわりつくありとあらゆる問題が盛り込まれている。一つのテーマだけで一本の映画になりそうな重いテーマが並ぶが、巧みな構成によって綺麗ににまとめられている。老女ニニーが現代の中年女性エブリンに昔語りし、50年前と現代が行ったりきたりする構成だが、これによって50年前の南部の女性と現代の女性、若い女性と老いた女性、聞き手である中年女性という、時代別世代別の女性の問題や生き方が、対比されつつ描かれる。また、"ほんのちょっと"寓話的な作風、"ほんのちょっと"サスペンス的要素が入っているのがポイントだと思う。この"ほんのちょっと"のさじ加減が絶妙。一つ一つの問題の難しさや深刻さはキッチリ織り込みつつも、重くならずに、全体的には心温まる作品になっている。
劣等感があり、引け目を感じているエブリンは、ニニーからイジーとルイーズの物語を聞くたびに、何かがはじけたように変わっていく。イジーとルイーズが不幸に次々と見舞われても、友情に支えられ、前向きに生きているというのもあるのだけれど、ニニーの語りは、まるでとっておきの本を読み聞かせているようで、楽しげで優しく、素敵な言葉がたくさん散りばめられている。エブリンでなくとも、話の続きを聞きたくなってしまう。素晴らしい語りをするニニーは、名優ジェシカ・タンディ。
しかし、この50年前のイジーとルイーズの繊細な友情の物語に比べると、現代エブリンの話がまるでベタなコメディなのだ。ニニーの話にすぐさま影響を受け、言動が極端から極端に変わる。エブリンに関しては、人物造形、脚本演出が荒削りな感じもする。エブリンを演じたキャシー・ベイツが偉い!。こんなにベタなのに、持ち前の強いキャラと芸で、観る者を楽しませてしまうのだから。エブリンが夫に向かって言うセリフ「私はもうホラー映画のデブじゃないのよー!」。もちろん彼女の代表作「ミザリー」ネタ。笑えた(^o^)。
ラストのジェシカ・タンディの1カットが大好きである。彼女が振り向いてエブリンに笑いかけた瞬間、何の説明もなくても、老女ニニーとイジーがピタッと重なるのだ。その笑顔だけで、イジーらしい芯の強さや無鉄砲なところや、悲しみもたくさん知ってることや、人生に後悔はしてないことや…複雑なものをどっと感じさせてしまう。ジェシカ・タンディってやっぱり凄い。当時82,3才(亡くなる86才まで現役)。そして思った。私は人生半ばにして、もう後悔ばかりだ。人生の終わり、独りぼっちになった時、こんな風に人生を振り返れるだろうかと。
(補足 原作のこと)
原作はファニー・フラッグ「フライド・グリーン・トマト」。原作ではイジーとルイースの同性愛が色濃く出されているらしい。それを知って腑に落ちた面もある。女の友情はないとは言わないが、映画でもイジーとルイースの関係を"親友"というにはチョット違和感があったからだ。恋愛のほうがしっくりくる。イジーは服装も性格も男らしく、性同一性障害っぽいところがある。ルイースはフェミニン。自分の人生を顧みずにルイースを守ろうとするイジー、イジーの堅く閉ざした心を開き、優しく見守るルイース。私は気づかなかったけれど、映画は同姓愛色を払拭しているものの、勘のいい人なら、そういう関係かもしれないと想像がはたらく演出がなされていた…。
「イカとクジラ」 2005年 アメリカ
監督;ノア・ボーンバッハ
出演;ジェフ・ダニエルズ,ローラ・リニー,ジェフ・アイゼンバーグ,オーウェン・クライン
2007年11月16日 シネマナウ 自宅PCシアター
1986年ブルックリン。昔は評価されたが、今はサッパリの純文学作家の父と、最近売れっ子作家になった母が離婚。高校生の兄ウォルトと12才の弟フランクは、父と母の家を行ったりきたりする生活が始まった。
家庭崩壊のドラマを滑稽さと諦念を漂わせてサラリと見せる。この肩の力が抜けたような作風は、私好みだ。
知識があることが偉いと勘違いしているダメ父と、浮気も隠さないことが子供との風通しの良い関係つくると思ってるバカ母。しかし、どんな親でも子供にとっては絶対的な存在だ。知的武装の必要を感じてる兄ウォルトはダメ父に盲信してしまうし、弟フランクぐらいの年齢だと、バカ母でも母は恋しい。映画の9割以上は、ダメ親ぶりと、それに振り回される子供たちのエピソード。監督の半自伝的作品らしく、いがみ合った人間のセコさとか、ピリピリした空気にさらされた子供の行動とか、エピソードの一つ一つがぶっ飛んではいるが、生々しい。
そして家族が救いようのないところまで転げ落ちた時、唐突に、ラストがやって来る。このラストが良い。絶対的存在だった親が、ダメなところもあるフツーの人間だと気づいた時から子供は大人への一歩を踏み出す。そのウォルトの大人への第一歩を、とてもシンプル、印象的な1カットで見せている。しかし、そこに「イカとクジラ」というメタファーを置くことで、彼の驚きや心情や、彼はこの状況を乗りこえられるだろうとか、観ている者にさまざまな想像を働かせるのだ。「イカとクジラ」が何なのかは、観てのお楽しみ(^^)と。
それにしても、父親のキャラクターは笑えた。ヌーベルバーグ好きで、部屋には「ママと娼婦」のポスター。息子はガールフレンドと「ショートサーキット」を観に行くと言っているのに、「ブルーベルベット」にしようと勝手にデートに割り込み。担架で病院に運ばれて「最低だ…」と「勝手にしやがれ」の名シーンを気取るけれど、一世一代の芝居にだれも気づかないので、あわてて映画の説明をしたり。あ〜いた、いた。学生時代の映研にもこんな映画通を気取ってるヤツが…って自分ぢゃん(^^ゞ。でも20才のお子様なら笑って許せるが、40すぎのオッサンがこんなだったらかなり痛い…。
次男役のオーウェン・クラインは、ケヴィン・クラインとフィービー・ケイツの息子。クリッとした目元はフィービー、鼻から下は父親そっくり。難しい役だったが、役者の子供は役者だなぁ。
「トランスアメリカ」 2005年 アメリカ
監督;ダンカン・タッカー
出演;フェリシティ・ハフマン,ケヴィン・セガーズ
2007年11月16日 show time 自宅PCシアター
ブリーは性同一性障害。体は男だが、女性として生活していた。念願の性転換手術を受ける直前、男性スタンレーだった頃に出来た息子ドビーがあらわれた。愛情を知らずに育ち、本当の父親に憧れるドビーと、彼に真実を言えないブリーのトランスアメリカの旅。
トランス(trans)には「横切って、貫く」の外に「他の側へ、別の状態へ」という意味もある。アメリカ大陸横断と同時に、彼らが葛藤を越えて、新しい自分や家族関係を築いていくという意味も含まれているのだろう。
ロードムービーとしては、可もなし不可もなし。数あるロードムービーを平均化したような作品。他人みたいな親子が偶然旅することになって、途中でお金を盗まれて、ピンチをいろんな人に助けられながら二人で切り抜けたと思ったら、本当のことがバレて衝突して、最後の方は不思議な「母子」関係が芽生える。脚本がありきたり。下手なロードムービーでは、よくお金が盗まれる。単調になりがちなロードムービーに、急展開や盛り上がりを加えるとしたら、いちばん手っ取り早いのだろう。
それでも飽きずに見られるのは、ブリーという人物に惹きつけられるからである。ブリーを演じるのは、フェリシティ・ハフマン。女優が、女になろうとしている男を違和感なく演じている。ブリーには女性とは違う不自然さがある。歌舞伎の女形が演じる女に通じる不自然さ。腕を組んで肩を小さく見せるとか、必要以上にちょこまかした動きとか、声のトーン言葉遣いとか、女性らしく見える仕草を研究しつくして、スキなく演じているブリーを、女優フェリシティが見事に演じている(ややこしいな)。また、外見もセミロングの髪型、淡い色のメイク、ピンクやラベンダーのロングスカートやドレス。女性から見ると、ダサーっ!と思うが、いかにも男性が女装する時に、好みそうなメイクファッションっぽい感じがする。ブリーの女になりたいという一途な思い、細やかな努力をする姿には惹かれるし、応援したくなってしまう。
いちばん評価できる点は、性同一性障害を真面目に取り上げたことだと思う。性同一性障害が映画に登場する場合、ドラッグクィーンなど強烈なキャラクターで、ショウビズ、お水などに生きる人たちが殆どだったと思う。問題提起としてはインパクトがあった。しかし、ブリーは普通の女性なろうと努力し、普通に働き、慎ましい日常生活を送っている。現実的にはブリーのような人が圧倒的に多く、ショウビズなど狭い世界に割り切って生きるより、悩みが深いのではないかと思う。ブリーは、性同一性障害に悩んでいるのではなく、そうした自分を受け入れた上で、越えなければならないハードル=別性になった自分と家族関係の再生に立ち向かっていく。セクシャルな問題への理解が進み(特にアメリカでは)、映画での取り上げられ方も変わってきたと感じる作品であった。
「タクシードライバー」 1976年 アメリカ
監督;マーティン・スコセッシ
出演;ロバート・デ・ニーロ,ジョディ・フォスター,ハーベイ・カイテル
2007年11月10日 第63回シネマクラブ上映会
ベトナム帰りの青年で、タクシー運転手のトラビス。夜の街をタクシーで走りながら、世の中の腐敗にいらだちを感じていた。孤独で、女性とも上手くつきあえず、少女を売春させる男や組織に腹を立て…行き場のないエネルギーは社会浄化計画へと向かっていく。カンヌ映画祭でパルムドール受賞。
20年前に観た時とだいぶ印象が異なった。以前は、なぜかベトナム帰還兵というところが重く見ていて、国家のために闘ったのに、誰も自分を注目してくれず、社会は堕落と腐敗だらけ。その苛立ちが、社会を浄化するという異常なエネルギーになったと思っていた。同時期に「プラトーン」「フルメタルジャケット」などを立て続けに観たせいかもしれない。
今回改めて鑑賞すると、トラビス個人の狂気に焦点が絞られ、社会的背景は殆ど描かれていいないことに気づく。少なくともトラビスは、ベトナム戦争を重く感じるそぶりは見せていない。武器の扱いに、片鱗が見えるだけである。彼が感じているのは、戦争の傷というより、何をやっても上手くいかないことに対するもっと漠然とした不満や孤独。その原因は、第三者的にみると、自己中心的で社会性がないことにあるが、彼は無自覚なので、その捌け口も何か大きいことをしたい、注目されたい→社会を浄化しようという、これまた漠然とした対象へ向かっていく。目的が定まった時のトラビスの変貌ぶりが恐い。虚ろでうつむいていた目が輝き、「you talking to me?」と鏡に向かって話しかける姿は、狂気によって溢れてくる自信で、生き生きしている。
しかし、トラビスの狂気を通り越して、やっぱり70年代のアメリカ社会の空気をピシピシ感じてしまうのは、なぜだろう。この点が、今日も流行っている10年やそこら時代を置き換えても違和感のない、普遍的な狂気・猟奇作品とは一線を画す点であると思う。70年代、アメリカではベトナム戦争の事実上の敗北、74年ウォーターゲート事件と、国民が誇りにしてきた正義や民主主義が崩れ、また経済的にもニクソンショック、オイルショックと続き、豊かさにも陰りが見えはじめてきた。「何か大きいことしたい」だけのトラビスにとっては、大統領暗殺も、少女売春のポン引き殺しも大して変わらないかもしれないが、そこには政治不信や、大義名分があれば殺しも赦す「正義」といった、この時代に一気に噴出したアメリカの病んだ部分を感じずにはいられない。そうした世相を考えるほど、トラビスの狂った「正義」がまかり通るという結末も、真っ当な法治国家ならあり得ないのに、妙に現実味を帯びてくる。トラビスは狂っている。でもトラビスの「正義」を受け入れしまう社会はもっと狂っている。それが70年代のアメリカ。失業者が溢れ、若者は鬱屈し、政治も嘘っぱち、何が正義か分からない、アメリカンドリームが消えた国。
有名すぎる惨劇シーンは、今でも暴力殺人シーンの最高峰だと思う。70年代以降、暴力シーンでリアリティが追求されるようになり、大概はもう驚かないが、本作はいまだに衝撃が走るし、何度見ても、その凄惨さに目を覆いたくなる。
また、夜の濡れた路面にゆれる色とりどりのネオンなど大都会の虚ろさを感じさせる映像表現、バーナード・ハーマンのサックスによる気怠い音楽も素晴らしい。そして、トラビス役のデ・ニーロの演技が凄いのは言うまでもない。微笑一つにも、尋常ではないものを感じさせるのだから。脇役の12才の娼婦を演じたジョディ・フォスター、ポン引きのハーベイ・カイテルなども、当時はまだ無名だったと思うが、印象に残る演技を見せている。この映画を見た男子の73%ぐらいは、鏡に向かって「you talking to me?」と言ったにちがいない…。