「舞踏会の手帖」  1937年  フランス

監督;ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演;マリー・ベル,フランソワーズ・ロゼー,フェルナンデル
2008年5月?日  DVD  自宅ごろ寝シアター

dvd 未亡人になったクリスティーヌ。16歳の時、はじめての舞踏会で踊った相手を手帖を頼りに訪ね歩く。彼女の手帖には8人の名前が記されていた(舞踏会では男性が女性にダンスを申し込み、女性は手帖にその名前を書き記し、順番に相手する)。
少女時代の美化された思い出とシビアな現実のドラマが、オムニバス形式で展開されていく。一つ一つの話は簡潔で濃密。映像も回想は流麗優雅に、現実は殺伐と猥雑に。とりわけ舞踏会の回想シーンは素晴らしい。白いドレスの裾が優雅に揺れながら次々とダンスの輪に入っていくシーンは、映画史で最も美しいかもしれない。音楽はモーリス・ジョベールの名曲「灰色のワルツ」。これは楽譜を逆から演奏し、逆回転して再生されており、回想の現実離れしたまどろんだ雰囲気を演出する。と、さまざまな趣向を凝らした作品であり、名作に数えられるのも納得できる。
しかし…だ。あ゛ー、ヤな女だな(爆)。私はクリスティーヌに共感できず、好きになれない映画。クリスティーヌは資産家と愛のない結婚をした。この時代、結婚は親が決めるもので、資産>愛は当たり前の選択だったのだろう。未亡人になって、もう一度甘い恋の囁きを夢見たり、昔のあの人どうしてるかしら?と思う気持ちは分からなくもない。いただけないのは、その後だ。男性たちの人生に、クリスティーヌへの失恋が多かれ少なかれ影響をあたえていた。クリスティーヌが思っていた以上に男性たちは彼女に恋していたのだ。彼女の結婚に傷つき、道を誤ってしまった人もいるし、失恋の痛みをばねにして、厳しい現実のなかで立派に人生を築いてきた人もいる。しかし、彼女は、彼らの人生にはまるで無関心で、彼らに申しわけなかったという気持ちもなければ、同情も敬意も見せない。ただただ現実に汚れちまった彼らに幻滅し、自分の美しかった思い出が壊れていくことだけを悲しんでいる。これじゃあ、クリスティーヌが世間知らずのお高くとまった有閑マダムにしか見えず、同情も何もできないって。
この映画のテーマには普遍性がある。大人になれば、若い頃の恋の思い出ほど甘く懐かしく輝くものはない。昔の恋人は気になるけれど、現実を知れば、その輝きは失われることも薄々と知っている。もっと大人の苦いような、切ないような、等身大の感傷にうったえるような映画にできなかったのかなぁと思う。

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「カリガリ博士」  1919年  ドイツ

監督;ロベルト・ヴィーネ
出演;: ヴェルナー・クラウス, コンラート・ファイト
2008年5月?日  DVD  自宅ごろ寝シアター

dvd サイレント映画。青年フランシスは、カリガリ博士が眠り男ツェーザレを操って連続殺人を起こしていると疑っていた。真相解明に乗り出すが…。
サイコ・ホラー、サイコ・サスペンスの元祖と言われる古典作品。真実のように語られてきたことが、実はとんでも世界だったよーん!という、いわゆる「信頼できない語り手」(ミステリ小説などによく使われる手法で、語り手の信頼性を低くすることにより読者を惑わせる)によるどんでん返しは、サイレント映画時代には画期的だったと思う。
この作品では、フランシスが真相解明の語り手となり、回想というスタイルで展開する。彼は好青年。論理的で、真相解明にも破綻がない。一方、カリガリ博士や眠り男は、白ぬり顔に黒い影が強調され、風貌からして怪すぃ。行動も怪すぃ。彼らの出没するところ、カーニバル、見せ物小屋、殺人事件、精神病院と、とにかく怪すぃっーーーものでいっぱいなんである。そして、すべて書き割りによるセットで撮影されているが、建物やドアの線は歪み、床も斜め、坂道はジグザグと登り、白黒のコントラストを強調した模様が、より一層、空間を歪ませている。そのため、観客は唯一まともなのはフランシスだけで、彼以外は何もかも狂った世界のように思いこんでしまう。しかし、よくよく考えれば、これらはあくまでフランシスの語りによる一人称世界であって、真実かどうかは誰にも分からない。
本作の結末は非常にシンプルで、種明かしシーンには稚拙さも残る。しかし、見事に観客を欺いてしまう。「信頼できない語り手」による騙しは、映画でも手変え品変えどんどん巧妙になってきて(参照↓)、そういうのを見慣れてしまった私たちは、隠されていた事実の意外性や、幾通りにも解釈できる物語の複雑さに目を奪われる。しかし、観客を騙す上で重要なのは、結末に至るまでの見せ方であり、いかにして観客の関心を明後日の方向に引き付けておくか、なんだよなぁと当たり前のことに気付された。さらにこの映画では、フランシスが「信頼できない語り手」となった瞬間、それまで見てきた物語も、歪んだ背景や人物像も、全く別次元の新しい狂気の世界として、観客の前に再度そそり立ってくる。そこが凄い。
DVDの解説によると、本作は「ドイツ表現主義」の傑作だそう。「ドイツ表現主義」とは人間の暗く不安な内面を表現した芸術。考えてみたら、1919年って第一次世界大戦が休戦した翌年だ。ドイツは戦争に加え、報復とも言えるヴェルサイユ条約によって疲弊し、ナチスが台頭しはじめる時期。敗戦国ドイツの不穏な状況が、映画や芸術にも影を落としていたのだろう。不思議奇譚のように語られはじめる物語、怪しいカリガリ博士と眠り男、歪んだ空間。そして、サイレント、字幕による白黒映像。現代の私の目には、覗かずにはいられない、ノスタルジックな幻想怪奇世界として映った。

(参照)
例えば、黒澤明『羅生門』>登場人物全員が信頼できない語り手。クリストファー・ノーラン『メメント』>語り手である主人公が10分間しか記憶できず、物語は語り手の細切れの記憶を辿るようにして、時間が過去へと遡りながら進行。ナイト・シャマラン『シックス・センス』>監督自身が信頼できない語り手(これは禁じ手だと思うんだけど…)。

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「ひなぎく」  1966年  チェコスロバキア

監督;ヴェラ・ヒティロヴァ
出演;イヴァナ・カルバノヴァー,イトカ・ツェルホヴァー
2008年5月?日  DVD  自宅ごろ寝シアター

dvd お洒落して、遊びに出掛け、おじさんを騙して美味しいご飯を食べて、またお洒落して、ダンスに行って。女の子も、映像もカット割りも、法則無視のやりたい放題。
数年前、リバイバル公開&DVD化され、話題になった。それで、私もこの映画のことを知ったわけだけれど。公開時、「アートやファッションに敏感な女性たちが大好きな映画と絶賛する60年代女の子映画の決定版」と宣伝されたため、アート系女子映画というイメージが定着してしまった。確かに、ファッションやメイクもレトロ可愛いし、私は他の女の子とはちょっと違うの!と自負するアート系女子にとっては、世間の秩序にとらわれず、大人が眉をひそめるような事を次から次にしでかす2人にカタルシスを感じるかもしれない。映像もRGBをちょっとずらしたり、色相を統一したかと思えば、突然、派手な原色を使ってみたり、コラージュのような分割画面にしたりと、前衛アートの匂いがする。
でも、それはこの映画の一面でしかない。この映画は、1966年、社会主義体制下のチェコスロバキアで作られた。2年後の68年にはプラハの春。つまり、『ひなぎく』は、知識人や芸術家たちの体制批判、自由化を求める声が高まりつつあった時代の波に乗るようにして、製作された。68年8月にはソ連の介入がはじまり、自由化への動きは弾圧されてしまうから、チェコスロバキアで表現の自由への締め付けが緩みかけた、ほんの短い期間に花開いた貴重な作品なのだと思う。
自分たちの欲望に忠実で、無秩序な女の子の存在自体が、社会主義体制に対する挑発のよう。キコキコまわる歯車、禁断の果実リンゴ、蝶の標本、鍵などのカットが、自由とそれを押さえつける体制の暗喩として、画面にわんさか溢れかえる。自由に欲望(やりたいこと)を追求できることが「私たち生きてる!」ということなのだろう。しかし、体制のなかで、あくせく働く人々にとっては、何の役にも立たない彼女たちは透明人間として描かれ、存在すら許されない。欲望も、若いはじけるようなエネルギーも封じ込めて、小汚くなってせっせと働き、「良い子にならなきゃ」この国で生きることはできないのだ。
気になったのは、食べ物が、実に汚く、粗末に扱われることである。彼女たちは、ところ構わず食べ物を貪り、粗末にする。それは、だんだんエスカレートし、最後には、特権階級のために用意された豪華な食卓をハイヒールでぐっしゃぐしゃに踏みつぶす。ここまでくるとさすがに、言いたいことは分かるんだけど、食べ物をそんなふうに粗末にすんなよ〜と不愉快になった。しかし、その後に出る字幕に撃沈…「踏みつぶされたサラダだけをかわいそうと思わない人に捧げる」。たぶん、あのシーンを見れば、大抵の人は「サラダがかわいそう」と思うだろう。でも、"食べること"(食べていくための労働も含めた意味で)より、人生、もっと大切なことがあるだろ?と、最後にガツンとやられる。自由に生きることを踏みにじられ、ボロボロの木っ端微塵にされちゃった女の子たちは、もっとかわいそうでしょ、あなたはサラダだけに同情するバカじゃないわよねと、逆に叱られたような気持ちになったのであった…(´・ω・`)。

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「小さな悪の華」  1970年  フランス

監督;ジョエル・セリア
出演;カトリーヌ・ヴァジュネール,ジャンヌ・グーピル
2008年5月?日  DVD  自宅ごろ寝シアター

dvd アンヌとロール、15才。ボードレール『悪の華』に魅せられ、放火したり、小鳥を殺したり、男を弄んだり。背徳的な悪戯はエスカレートしていく。
日本とアメリカ以外では上映禁止。「衝撃の問題作」と言われたが、広く公開するには、テーマと描写が公序良俗に反してるかもしれないというだけ。映画の内容は薄っぺらで、衝撃どころか、心に引っかかるものが何もない。なぜ背徳的行為をするのか。そこの描き方が下手くそなのが致命的。学校が厳しく、両親の子供への関心が薄いことがサラッと触れられるだけで、観客を納得させるだけの描写がない。だから、無知で、傲慢な女の子がアホなことしてるとしか見えないの。これじゃ、児童ポルノ撮りたかったの?と言われても、仕方がない。ラストも陳腐。女子中学生が書いた耽美小説みたいだ。
同作品は、ミステリ作家アン・ペリー(代表作は『見知らぬ顔』創元推理文庫、『十六歳の闇』集英社など)が、実際に少女時代に起こした殺人事件をモチーフとしている。同じ事件を元に、94年にピーター・ジャクソン監督(『ロード・オブ・ザ・リング』の監督)が、『乙女の祈り』を制作した。多感で危なっかしい少女、そういう二人が出会うことで、螺旋階段を昇るように彼女たちの世界、妄想がますます現実離れしていく恐さが、彼得意のファンタジックな映像を駆使して展開される。『小さな悪の華』とは逆に、犯罪そのものより、なぜそうなってしまったのか。それを短絡的に家庭事情に求めるのではなく、単純な言葉では説明できないような、世間知らずで、独りよがりで、夢と現実があいまいな少女の視線で描かれていく。見るなら、こちらの方がオススメ。主演は『タイタニック』のケイト・ウィンスレット。監督も彼女もまだ無名の頃の作品。

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