「時計じかけのオレンジ」  1971年  イギリス

監督;スタンリー・キューブリック
出演;マルコム・マクダウェル,パトリック・マギー
2009年5月?日  Gyao(無料動画)  自宅PCシアター

dvd 全体主義政府(と字幕では訳されてる)となった近未来のロンドン。ベートーベンの音楽を愛するアレックスは暴力、盗み、強姦…と悪行の限りを尽くしていた。仲間の裏切りで警察に捕まり、ルドビコ療法という治療法を受けることを条件に釈放される。
Well,well,well,ドルーグ。ホラーショーなシニーを見たぜ。ミルク・プラス飲んで、トルチョークでアルトラし放題な少年が、ガリバー痛になる話さ。ライティライ?←映画のなかでよく使われスラング。3回見ても、半分くらいしか理解できない…。
CinemaDiary『ソドムの市』でも同じことを書いた記憶があるが、人間の本能には暴力的衝動があり、これにより快楽も得られる(だからといって暴力は仕方ないとは思っていないよ、念のため)。とはいえ、人間には理性もあるし、躾や教育もされ、また社会生活を営まなければいけないから、こうした衝動を制御することができる。しかし、キューブリックは、暴力的衝動が全く制御できない人間=アレックスを作りだした。彼にとって、暴力を制御されないことが「自由」、暴力を振るうことが「幸福」であり、暴力を制御されることは苦痛以外の何ものでもない。
暴力シーンの演出が、これをよく表していると思う。アレックスの暴力シーンでは、彼らに白い服を着せ、暴力が行われる部屋の壁などにも白をふんだんに使う。そして、性器などをモチーフとした卑猥なのか芸術なのか微妙なオブジェや絵画をそこかしこに配して、開放的、自由奔放なイメージ。「雨に唄えば」、ヴェートベン第九「歓喜の歌」など幸せソングに合わせて、コミカルに、軽やかにステップを踏みながら、容赦ない暴力を振るう。人間の暴力的衝動を戒める宗教への冒涜もまた凄い。アレックスが聖書を開いたときに妄想するのは、キリストに嬉々として鞭打つ役人だから…。暴力をテーマにした映画は数あれど、こんなに楽しそうに暴力を振るうヤツって他にいないと思う。あの『ソドムの市』でさえ一部シーンを除けば、やっぱり暴力には陰湿さや暗さがあるもの。アレックスの暴力行為そのものは、残虐さを"売り"にする映画が氾濫する今となってはそれほどでもないけど(40年前はすげー衝撃だったと思う)、暴力が「幸福」として描かれることに対しては、何度見ても、嫌悪とかショックを通り越して、そこまでやるか…と、ただただ唖然とするばかりである。
しかし、こんなアレックスをも苦しめる暴力がある。それが国家や組織による暴力。権力によって、人間の自由や幸福を剥奪したり、体制のために人間を道具として利用する組織的な暴力である。この暴力は、アレックスの暴力とは対照的に、黒紺の制服やスーツを身にまとわせ、グレーの壁などで象徴される。窮屈で、陰湿なイメージ。この暴力のやっかいな点は社会全体にとっては利益に見えることである。いかにも正しい顔をしているが、アレックスから強制的に暴力を、つまり「幸福」と「自由」を剥奪しているわけで、この暴力もそこまでやるか…というぐらい彼を苦しめる。クズ同然のアレックスでも可哀想に思えてくるぐらい。
キューブリックのテーマはいつも答えがでない哲学的問題だけど、映画の構成や展開は理系。極端と極端の完璧なサンプルを見せるような感じでシーンを並べていく。何の制約もなく本能のままのやりたい放題の自由な暴力→本能までも強制的にコントロールして、これらを徹底して排除しようとする国家の暴力へ。そして、この対立する暴力を、国の全体主義体制を維持するために、アレックスを野放しという最悪の結末に昇華させる。キューブリックは世界一、芸術的でセンスが良い皮肉屋でもあると思うな。
キューブリックを見ていつも驚くのは、まったく古さを感じないこと。これが40年前の映画なんて信じられない。テーマが時代を超えた普遍性があるだけでなく、音楽の使い方、衣装、部屋のインテリア、小道具に至るまで、猥雑ですっ飛んだセンスは今見ても斬新である。
偶然知ったのだが、この「時計じかけのオレンジ」、小栗旬主演で舞台化だって(2011年1月)。ポスターも見たけど、このDVDの写真そのまんま。メイクも衣装も同じ、小栗旬の表情も主演俳優のマルコムと全く同じ。コスプレか?とつっこみたくなったわ。脚本は原作者のアンソニー・バージェス。あの凄まじい暴力とsex、舞台でどう表現するのかなぁ。

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