「英国王給仕人に乾杯!」  2006年  チェコ

監督;イジー・メンツェル
出演;イヴァン・ヴァルネフ,オルドジフ・カイゼル,ユリア・イェンチ
2009年10月17日  パルテノン××

dvd 小国チェコがたどった20世紀現代史を、小さな村出身の小さな給仕人ジーチェと重ね合わせて軽快に描いていく。2009年に観た映画ベスト1。
大国支配への抵抗や批判を描いた作品には、例えば、アンジェイ・ワイダの一連の作品、テオ・アンゲロプロス『旅芸人の記録』、ケン・ローチ『麦の穂を揺らす風』などが思い浮かぶ。いずれも支配が生む数々の悲劇、自国のアイデンティティなど重いメッセージを放つ。しかし、本作の作風はこれらと異なる。大国の侵略や政治干渉を皮肉の効いたユーモアで軽やかに一蹴してしまう。ジーチェ演じるイヴァンの演技がチャップリンのようと評価されているが、無声映画を彷彿させる音楽、早回しのようなちょこまかした動きなどからも、チャップリンの批判精神を意識しているのかなと思う。
ジーチェは望むと望まざるとに関わらず、政治によって幸福の絶頂にも、不幸のどん底にも突き落とされる。が、本人はそんなのお構いなしに、女の子と懇ろになりたいとか、お金持ちになりたいとか、自分の欲望にだけ従って飄々と人生を渡り歩いていく。彼は愛国精神もなければ、政治にも無関心だけど、そういう不埒な彼の生き方が、権力や、国境や民族で人間がいがみ合うことへの図太い抵抗になっているところが面白い。ジーチェの勲章だって偶然によるもので、偉そうに見えるけど中味なんてないのと同じ。権力なんてそんなもの。原題は「私は英国王に給仕した」。これはジーチェが崇拝している給仕長のセリフだが、ジーチェはこれを聞いて感動のあまり失神してしまう。ドイツが自国を侵略しようとしているのに、ジーチェはまったく別次元で「英国王に給仕した」人をすげーと思ってるわけで、侵略者をコケにする粋なタイトルだと思う。しかし、監督は、ノン・ポリ小市民ジーチェと対比させつつ、ドイツに抵抗する給仕長が連れ去れ、若者が処刑されるシーンを入れるのも忘れていない。ジーチェの呑気さを素直には笑えないのである。
そして、支配侵略というテーマと絡み合いながら、人生や幸福って何だっけ?ってところまで考えさせる。本作では、人間の欲望・野望が実に滑稽に描かれる。それらをどんなに貪欲に追い求めたとしても、人生は思うには進まない。幸福は不幸とどんでん返し(ジーチェのセリフ)。幸福が不幸の種を撒くこともあればその逆もあり。大き欲望を持っていた小さなジーチェが、そんな波乱の人生の末に見つけた幸せは、お金持ちでも、女でもない、小さな身の丈にあった暮らし。冒頭シーンで、空から降ってくる「切手」、彼がユダヤ人商人バルデム氏からだましとる小金はおそらく欲望の象徴。彼はバルデム氏にお金を返し、大空に「切手」をまき散らす。素敵なラストシーン。

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「小間使の日記」  1963年  フランス

監督;ルイス・ブニュエル
出演;ジャンヌ・モロー,ミシェル・ピコリ
2009年10月24日  DVD  自宅ごろ寝シアター

dvd パリから田舎町の資産家へ小間使いとしてやって来たセレスティーヌ。しかし、立派な家に住んでいたのは、靴フェチの老人、セックス狂いの主人、物と金だけに以上に異常に執着する婦人、粗野で下品な下男と…欲望むきだしの人々であった。そんななかで、セレスティーヌのかわいがっていた少女が強姦され、殺される事件が起きる。
人間なら誰しも多少は汚い部分とか、人には隠したい性質があると思うんだけど、ブニュエルはそれらを暴き出すことにこだわる。立派な家柄で、社会的地位とお金がある人々も、一皮むけば、きったない欲望のかたまり。老人がブーツに頬ずりしたり、ジャンヌ・モローの足をなめ回すように撮影したり、少女の足にカタツムリをはわせたり、当時としては変質的であったろう(今となってはそれほどでもない)、ねちっこい映像表現で資産階級を蔑む。また、ファシスト運動を支持する下男を、狡猾で下品な人間のクズとして描く。所詮ファシスト支持者なんて、口では愛国主義なんてきれいごと吐くけど、人間以下のヤツらばかりとでも言っているよう。ここまでは分かりやすい。ブニュエルが政治的に左寄りで、フランコ独裁政権を批判しつづけ、ついでに足フェチ(笑)であることを考えれば、なおさら。
爆弾は、唯一まともに見えたセレスティーヌ(ジャンヌ・モロー)によって落とされる。彼女だけはこういう人たちを冷ややかに見つめ、つねに毅然としていた。しかし、その彼女すら資産階級に憧れていることを匂わせる。終盤にいくほど、セレスティーヌの人物像がますます分からなくなってくる。考えてみれば、彼女は、小間使いという職業ではおそらく買うことができないだろう高級な洋服や小物を身につけているし、少女殺人の犯人を追い詰めるためとはいえ、嫌な男だろうが、簡単に「女」も利用する。最後の彼女の人生の選択は、それまで、どんな手を使ってそういうモノを手に入れてきたかを想像させる。結局、彼女も、彼女が軽蔑していた人々と大して変わらないのである。徹底して人間の暗部を見せらつけられたようで、後味が悪い。アマノジャクの私は、こういう意地の悪い映画嫌いじゃないけどね。
救われたのは、ジャンヌ・モローのメイド姿が萌えーーーだったことかな(笑)。

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「ココ・アヴァン・シャネル」  2009年  フランス

監督;アンヌ・フォンテーヌ
出演;オドレイ・トトゥ,ブノワ・ボールヴールド
2009年10月17日  ワーナー・マイカル・シネマズ

dvd 修道院の孤児院で育ち、お針子とナイトクラブの歌手だったココ・シャネル。デザイナーとして成功するまでを描く。アヴァン(avant)は〜の前にという意味。タイトルは「シャネルになる前のココ」という意味かしらん。
恋多き波瀾万丈の人生であったことはよく知られているが、そこは淡泊。むしろデザイナーとしてのバックボーンが中心に描かれる。シャネルがデザイナーとして注目されはじめる1910年代半ば頃、女性の洋服の革命期でもあった。身体をコルセットで締めつけ、レースやリボン羽などをあしらったゴテゴテドレスから、コルセットを外したより機能的で、シンプル、優美なラインのドレスへ。その革命を担ったひとりがシャネルである。この作品で、彼女が何に美しさを見いだし、なぜこのような服を作ったのかがよく分かった。修道院での黒と白襟のシンプルな服の美しさ、上流階層への憧れと蔑まされる悔しさ、男に従順であることへの抵抗などが、彼女の着ている服、作る服として形になっていく。身体のラインぴちぴちの飾り立てたドレスって、結局は男を喜ばせるドレスなんだよね。映画でも、女性がドレスを選ぶシーンはなくて、男性が女性に着せたいドレスを与えていた。でもココだけは、それを拒否し、自分が着たい服を選んでいる。着たいものがなけりゃ、男服をアレンジしてまで着たい服を作る。彼女もまたリッチな恋人達の後押しがなければ、デザイナーとしての成功はなかったが、だからといって恋人達に従順ではなかった。同じリッチな男性と知り合っても、男性の都合の良い女性になった姉とは対照的。身分の違いから恋人と一緒になりたくてもなれない、そこで涙を流すのではなく、唇をキュと噛みしめて「私は結婚しない」というキッパリした態度で押し通していくところに、彼女の悲しみ、強さがにじみ出る。
映画評論家などのサイトでの評価が低いのにちょっと驚いた。シャネルの映画化というと、ドラマチックサクセスストーリーを期待する人が多いみたい。私は今まで知らなかったシャネルデザインの原点を見たようで新鮮だったけどな。やっぱり彼女の人生より、彼女の作った服に関心があるから。同時期にシャーリー・マクレーン主演の『ココ・シャネル』が公開されたが、シャネル(ブランドとしての)が本作の『ココ・アヴァン・シャネル』の方を公認したのも何となく分かる。
流行とはまったく異なる服を着ることって、すごくダサイいか、すごく格好いいかのどっちかしかないような気がする。だから、相当に勇気がいることで、センスに自信のない私は、なんだか自分らしくないんだけどなぁ…とは思っても、多少は流行を取り入れ、そこそこ似合ってしまうフリルブラウスなんか着てしまう(爆)。シャネルは流行にとらわれることなく、自分がどんなものを着れば美しいのか信念と自信があり、自らが流行を生み出す美的センスと想像力を持っていた。芸術家である。
オドレイ・トトゥが好演。ラストシーンの貫禄。あのアメリが、こんな女性を演じられるようになったのかぁ。若い頃のシャネルと顔立ちが似ている。

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「ミスト」  2007年  アメリカ

監督;フランク・ダラボン
出演;トーマス・ジェイソン,マーシャル・ゲイ・ハーデン,ローリー・ホールデン
2009年10月9日  wowwow録画  自宅ごろ寝シアター

dvd 映画のポスターを描く仕事をしているデヴィッド。子供とスーパーで買い物をしている時、濃い霧が街を覆った。霧のなかには何か巨大なものが潜んでいて、外に出た人間が無惨な姿に…。
原作はスティーブン・キング。約2時間の映画だが、1時間45分はラスト15分のための前振り。「衝撃のラスト」は決して大げさな宣伝文句ではない。ラストが原作と異なるが、キングがなぜこのラストを思いつかなかったのかと悔しがったというぐらい。
まず、本作では怖さが怪物以外のところ=人間にある。中盤を引っ張っていくのは、狂信者のおばちゃんだ。通常の判断能力があれば、彼女が狂っているのはだれの目にも明らか。最初は人々も彼女に冷たいが、不安が高まっていくにつれ彼女のご神託が人々のなかに入り込み、彼女を妄信する人たちがどんどん増えていく。多数の異常者からみれば、少数の正常者が「異常」になるわけで、正常な者がどんどん蚕食され、集団として冷静に行動できなくなる怖さは怪物以上。この狂信者のおばちゃん役、マーシャ・ゲイ・ハーデン(代表作『ミラーズ・クロッシング』、『ミスティック・リバー』など)が迫真の演技を見せている。脇役が多いが存在感があり、好きな女優だ。
そのなかで、最後まで冷静さを保って合理的に行動してきた主人公の選択は正しかったのか。これが問題のラストである。人々が混乱するなかで、主人公だけは冷静にカッコ良く行動し、主人公と彼に付いていった少数の者(大体は女性と子供とお年寄り)が生き残る。これ、アメリカパニック映画の基本原則。この基本原則をだれも考えなかった手で破ったという点で、映画史に残る。冷静に行動した者が、最後の最後にただの愚かな人間に貶められてしまう。それまで正しいと信じてきた主人公の選択・行動が、最初まで遡ってすべて最悪だったように思えてくるのだ。ここで監督は主人公に追い打ちをかける皮肉な小細工までしている。主人公に反対されたにもかかわらず、子供を助けるためにひとり外へと出て行った主婦。その主婦が最後のシーンで、うちひしがれた主人公を冷めたような目で見ながら通り過ぎていく。
また、知り合いに、この結末が冒頭で暗示されていると教えてもらって、なるほど〜と思った。主人公が描いていたポスターに注目である。一枚は『遊星からの物体X』。これは怪物映画の金字塔に対する敬意であろう。もう一枚は『夕陽のガンマン』なのだが、主人公はこのイラストを破り捨てている。自らの手でヒーローを葬っているのである。
この感想を書きはじめるまでは、最善を尽くしたにしても人間の力ではどうにもならないこともある、生きるか死ぬかは運命ってことだね…と捉えていた(過去形)。しかし、キング原作×ダラボン監督の他作品>『ショーシャンクの空に』を思い起こした時、事はもっと単純なのではないかと思えてきたのだ。『ショーシャンク…』では希望が重要なテーマだった。希望を持ち続け、あきらめずに努力すれば報われる。アメリカ的で前向きなテーマであるが、『ミスト』は表現が裏返しで、同じ事を言ってるのではないだろうか。『ミスト』は、絶望した時点で終わったと取ることもできる。主人公があと少しだけ希望を持ち続けたら、事態は180度変わったのだ。
序盤はもうB級っぽいベタな展開なんだけど、侮らずに最後まで見て欲しい映画(←侮って、一度は途中で見るのを止めた人(^◇^;))。

話のついで〜『ショーシャンクの空に』についての小さな考察
本作から反れるが、話のついでに。
今頃になって、『ショーシャンクの空に』は、キリスト教色が強い作品であるということが分かってきた(汗)。原題は『The Shawshank Redemption』つまり『ショーシャンクの贖い』。確かに、劇中で度々聖書の言葉が引用されていた。それが何を意味するかピンとこないのが悲しいところだが…
考えるきっかけになったのは、昨年読んだ小説、金城一紀『映画篇』(集英社文庫)である。そのなかに、「主人公の名前デュフレーンに隠された意味、主人公とイエス・キリストとの関係、相棒のレッドが草原を歩くシーンでたくさんのイナゴが飛んでる理由」(358ページ)という文章があって、気になっていた。答えを明かしていないところがこ憎らしい。『ミスト』の感想を書きながら、ふとこのことを思い出したので、調べてみることにした。安直であるが、グーグル先生で(爆)。
まずデュフレーンDufresneという名前からググってみる。以下「人名力」の引用〜「デュフレーンは、フランスの地名起源の姓で前置詞 de と 定冠詞 le の縮約形のDu 「〜から」と古フランス語 fresne 「トネリコ(モクセイ科の落葉樹)」からなる。」〜引用終わり。次に「トネリコ」でググると、多くのサイトで、聖木とされ、高潔・威厳・思慮深さの象徴であると解説されている。最初は、由来となった地名に何かあるのか?、トネリコは十字架の木か?と推測したけど、そういう解説は見つからなかった。確かに、アンディは尊厳を失わず、思慮深かった。やや強引なんだけど、高潔・威厳・思慮深さというとイエス・キリストのイメージとも重なる。
そう考えると、アンディ・デュフレーンとキリストとの関係が見えてくる。「贖い」とは、(私には未だによく理解できないのだが)罪のないイエスが十字架に架かったことで、人間の罪が赦されたということ。アンディは無実なのに、ショーシャンク刑務所に投獄された。このアンディの受難は、罪を本当に悔いている受刑者にこそ希望を与えていく。極悪人の看守が敬虔な信者として登場するが、罪深さを自覚しない上っ面だけの信仰の行く末は映画の通り。
特に、アンディとレッドの関係において、キリストの贖いと罪の赦しが暗喩的に描かれていると思う。イナゴが飛んでる理由もこれに関わってくる。「聖書 いなご」でググると、新訳聖書マタイ伝、出エジブト記、ヨハネ黙示録、ヨエル書、歴代誌などの記述が引っかかる。共通するのは、いなごの大群が作物を根こそぎ食い荒らす=神の裁きとして登場すること。なかでも、ヨエル書、歴代誌は、罪の悔い改めとセットで描かれている。すべてが荒廃するなかで、自分の無力さを知り、罪を悔い改めて神を呼び求める時、罪は赦され、希望が与えられると。つまり、レッドがアンディと約束した地を歩く時、いなごが大量に飛んでいるのは、アンディ=キリストの贖い、そして導きによって、何十年も後悔しつづけてきたレッドの罪が赦されたことを意味しているとも考えられる。孤独で、人生に絶望していたレッドは、この後、生まれ変わったかのように「I hope…」と何度も言いながら、アンディのところへ向かうのである。
本作の重要なテーマである「贖い」は、キリスト教に馴染みない私には、聖書のなかでも特に分かりにくい考え方である。そんなこと知らなくとも、感動させる力があるというのは凄いことだ。しかし、次に見るときは、もっと別の深い感動があるんじゃないかと思う。過去に書いた『ショーシャンク…』のdaiaryを見たら、なんか的外れの些末なことばっかり書いてて、愕然としたよ。。。

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「デッド・ゾーン」  1983年  アメリカ

監督;デヴィッド・クローネンバーグ
出演;クリストファー・ウォーケン,ブルック・アダムス,マーティン・シーン
2009年10月9日  DVD  自宅ごろ寝シアター

dvd 原作スティーブン・キング。交通事故にあって5年間の昏睡状態から目覚めたジョニーは、自分に不思議な透視能力が備わっていることに気づく。その能力のために孤独な生活を送っていたが、ある日、彼は偶然恐ろしい未来を透視した。
おもしろいストーリーをテンポが良く、きれいにまとめている。娯楽作品の佳作。いくらでもドラマチックにできそうな要素がつまっているのに、感傷的な盛り上がりは極力抑えて、主人公が自分がなぜ能力を授かったのか、その意味を見い出していく過程を軸に淡々と描いていく。ジョニーにしか見えない未来があって、だれからも理解されない重い使命をひとりで背負って戦わなければならない。なんと孤独な運命なんだろう。季節はいつも冬で、ジョニーは雪と氷の寒々しい景色のなかを歩いている。映画全体が冷たい空気で覆われているようで、ジョニーの孤独と悲しみが満ち満ちている。
主演クリストファー・ウォーケンあっての映画。演技は抑制的だけど、目や細やかな表情に悲しみを含ませる。笑っていても、目は暗く悲しげ。憂いを含んだ顔立ちも、ジョニーの役柄にぴったりとはまった。彼の代表作(『ディア・ハンター』等)を見ていない私は(恥)、ウォーケンといえば、悪役or強烈な脇役のキワモノ俳優というイメージだったが、本作でイメージが変わった。付け加えると、この直後に見た『ヘアスプレー』(2007年)では歌って踊れるウォーケンにさらにビックリした。あのウォーケンが笑ってるよー、こわいよー(笑)。繊細な役からコメディミュージカルまでなんでもこなす名優である。
クローネンバーグ監督の代表作と言えば『ザ・フライ』(1986年)。ぐちょぐちょのグロいホラー作品が多いなかで本作は異色作だと思う。とはいえ、淡々としているなかにも、中盤の連続殺人犯を追い詰める緊張、犯人の自殺シーンなどは、彼のそうした才能・センスが光っている。
本作で、大統領を目指している狂気じみた政治家役のマーティン・シーンは、1999年〜2006年に『ザ・ホワイトハウス』というテレビドラマで無能な大統領役を熱演(←面白い、2011年4月現在wowwowで再放映中)。また、ウォーケンは本作のなかで何度かスリーピーホロウの詩の一節を読むが、彼も1999年に『スリーピー・ホロウ』に首なし騎士として出演(未見)。これは…ホンモノの予知夢映画かもしんないぞ。

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