「シテール島への船出」  1984年  ギリシア=イタリア

監督;テオ・アンゲロプロス
出演;アキス・カレグリス、タソス・サリディス、ジュリオ・ブロージ、 デスピナ・ゲルラヌー
2010年11月3日  NHKBS録画  自宅ごろ寝シアター

dvd 映画監督アレクサンドロスは父親役の老人を探していた。ラベンダー売りの老人が目に止まって彼の後をつけていくが、港にたどり着いたところで、突然、アレクサンドロスの構想する映画に、つまり劇中劇に切り替わる。さっきの老人が父親となりアレクサンドロスの前に現れる。社会主義革命の闘士として闘い、32年前にソ連へ追放された父スピロが船で帰ってきたのだ。
現実と劇中劇の重なりへの導入はアンゲロプロスらしい手法が使われる。彼は長回しの1カットのなかで、全く違う場面へ飛躍させることがある。例えば代表作『旅芸人の記録』では1カットのなかで時代が何十年も飛ぶ。本作では、アレクサンドロスが花売りの老人を見失って港を見渡していると、そこに突然妹があらわれて「父が帰ってくる」と告げ、劇中劇がはじまる。同じカットのなかで現実→劇中劇を示唆することで、現実か?劇中劇か?曖昧さを残しつつ鮮やかに別次元へと場面を飛躍させる。ここからはアレクサンドロスの撮影する映画(虚構)でもあり、彼と家族の現実物語でもある。
テーマの一つは、何処にも帰る国も家もないの孤独。これは分かりやすい。移民としてギリシャに来て、そのギリシャに追放され、帰ってきても歓迎されず、ソ連にも帰れず…アレクサンドロスの父スピロの孤独が、最小限のセリフと演出、美しく詩的な映像で迫ってくる。『霧の中の風景』でも感じたことだが、80年代のアンゲロプロス作品は映像が語る力が強くなった。映像だけで心揺さぶられ、言葉にならない複雑な情感が湧き起される。終盤、スピロは「しなびたリンゴ」としか言わなくなるが、ギリシャ神話ではリンゴは不和の原因になる果物。何処でも争いの種になり、拒否される自分の存在を意味しているのだろうか。
そして、もう一つは、あまり自信はないが、理想をなくしたギリシャという国への失望。もう一歩進んで、個々人の物質的豊かさを求めること=資本主義経済への批判も含んでいるように思う。ギリシャは他国に蹂躙され、軍事政権、内戦にも苦しんだが、だからこそ人々には理想とする政治、国家像があったのではないか。スピロもまたそうした政治的理想のために闘った。しかし、30年後、帰ってきてみれば、村人たちは生活しやすい便利な地へと移り、闘いの地でもあった故郷はスキーリゾートへ売られようとしている。そこに、亡霊のように帰ってきて、争いの種になろうと、自分の信念を貫き頑として抵抗する闘士スピロがいる。一方で、息子のアレクサンドロスは映画監督でリッチな生活をしているが、父親と家族の問題にひたすらウロチョロしてるだけ。忙しそうに見せてるけど、実は何もしていない。行動力ゼロ。妹は妹で、「信じられるものがないのは恐ろしいことだ、信じられるのはこの現実だけ」(正確にはおぼえてないけど)のような意味のセリフを言い、家族の一大事の時に行きずりの男とsexしたりする。理想を失った世代の二人は、空虚きまわりない。こう考えてみると、『シテール島への船出』というタイトル、ラストシーンの映像がより重く胸に迫ってくる。

(補足)
前回『霧の中の風景』の感想で「ギリシャの現代史、政治」的色彩が「後退した」と書いたが、『シテール島への船出』の感想を書いているうちに、ちょっと違うような気もしてきた。『霧の中の風景』もまた理想を失った国を描きたかったのかもしれない。飢えた子供がパンのために働き、少女は金を得るために体を売ることを覚え、大きな手のオブジェは行き先を示せず、激動のギリシャと重ね合わせられていた「旅芸人」は崩壊していく。かといってこの国に絶望しているわけでもないと思う。『霧の中の風景』も本作も1本の木が印象的に映し出されるが、これは希望や理想の象徴なのだろうと思う。

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