「チャイナタウン」  1974年  アメリカ

監督;ロマン・ポランスキー
出演;ジャック・ニコルソン,フェイ・ダナウェイ,ジョン・ヒューストン
2010年9月?日  DVD  自宅ごろ寝シアター

dvd 1930年代ロサンゼルス。私立探偵ジェイク・ギテスは「モーレイ夫人」から夫=水道局幹部ホリス・モーレイの浮気調査の依頼を受ける。しかし、ホリスは殺害され、依頼した「モーレイ夫人」は別人であった。水道の利権をめぐって何か裏があると確信したジェイクは事件の真相を突き止めようとするのだが…。
フィルムノワール、ハードボイルドの傑作。プロットは複雑で、徹底して何も知らないギテスの視点で事件を追っていく(この辺の作り方はハワード・ホークス『三つ数えろ』1946年を思い起こさせる)。関わる人すべてが何かを隠し、情報は小出し。何かが解決すると、またそれが大きな謎を呼び、ただの浮気調査が社会的陰謀へ一気に広がり、そして家族の愛憎劇へと、いつの間にか思いも寄らない方向へと導かれている。1回の鑑賞では全体像は分かりにくいものの、真実の断片が一つずつ見えてくるにつれ、ギテスと一緒に泥沼に足を取られるようにズルズルとチャイナタウンに引き込まれていく。そして、プロットや結末が分かってからまた見直すと、今度は脚本の緻密さ、細かな伏線(特にラストにつながる「片目」を印象づけるカット、セリフがさりげなく散りばめられる)、登場人物の表情や台詞に深い意味があったこと、それを表現するジャック・ニコルソン&フェイ・ダナウェイ、ジョン・ヒューストンの演技の凄さ、観れば観るほど、この映画が完璧であることが分かってくる。何度も見直したくなる映画(私は続けて3回も観てしまった)。
そして、多くのポランスキーの作品に共通するのだが、強大な権力に対して、どんなに抵抗しても、何も変えることができず、押しつぶされてしまうやりきれなさ。それは彼がユダヤ人であることと無関係ではないとは思う。エヴリン(モーレイ夫人)もギテスも、手を尽くせる限り尽くしても大切なものを守り切れなかった、それだけでも絶望的悲しさなのだが。エブリンの父ノア・クロスが、自分のせいでそうなったのに娘エヴリンの無残な姿には目もくれず、自分が欲しいものにしか関心を向けていないところがなぁ…絶望を飛び越えて、もはや虚脱。
いろんなところで指摘されていることだが、as little as possible =「怠け者」という字幕。「怠け者」というよりは、「ほとんど何も出来ない」という意味に近いと思う。主人公は、どんな手を尽くしても、助けられなかった。それは「怠け者」とは違うような。とても重要なセリフなので、ここはDVD再販時はどうにかならないものかと。

Cinema Diary Top

「評決」  1982年  アメリカ

監督;シドニー・ルメット
出演;ポール・ニューマン,シャーロット・ランプリング,ジャック・ウォーデン
2010年9月?日  DVD  自宅ごろ寝シアター

dvd フランクはかつては有能な弁護士だったが、今では酒に浸り、葬式の家を訪ねては仕事を探す日々。ある日、医療ミスに関わる裁判が持ち込まれる。示談に終わる簡単な裁判なはずだったが、被害者を見ているうちに正義感が甦ってくる。そして、病院側の敏腕弁護士が立ちはだかるなか、病院のミスを訴え、この裁判に再起をかける。
社会派映画の巨匠だけあって、理路整然とした物語と展開、メッセージ性も明確、緊張感があり、見応え十分の映画。が、残念な点もある。いまいちリアリティに欠けること。病院側弁護士が裁判官と露骨に癒着してたり、スパイ送り込んだり、証人を物理的に出廷させないようにしたり、フランクの決定的証拠を採用しなかったり。これってありなの?と素人でも疑問に思うような悪どい手段で被害者とフランクを追い詰める。こうした要素が、社会的地位やお金で支配される法廷の「正義」vs真相をうやむやにされた貧しい人々たちを救う真の正義という対立をドラマチックにしているのは確かだけど、リアリティがない。法廷劇でリアリティに「?」が付くのは、痛手。
映画に引き込まれてしまうのは、フランクの人間味あるキャラクターに共感でき、ポール・ニューマンの演技が素晴らしいから。病院側の弁護士が、クールに抜け目なく勝つ戦略を組み立てていくのに対して、フランクは、勝てそうな証言が得られそうになるとすぐに浮き足立ったり、追い詰められると、酒に逃げたり、みっともなく頭を下げたり、まともに息もできなくなるほどストレスに苦しんだり。彼の正義感というより、人間としての弱さや泥臭さ、崖っぷちに立たされて、なりふり構わず必死になっている姿に心打たれてしまう。それを立派な不良中年に成長した?ポール・ニューマンが渾身の演技で見せてくれる。冒頭シーン、演出も良いんだけど、昼間っから酒を片手に、ピンボールしている彼にただならぬくたびれ感、やさぐれ感が漂っていて、そのワンカットだけでも映画の世界にぐーっと吸い寄せられてしまうもの。ポール・ニューマンの出演作のなかでも、本作は演技力が高く評価されている。『スティング』(1973年)や『明日に向かって撃て』(1969年)も良いけど、ポール・ニューマンの円熟した演技をじっくり見たいなら、本作がお薦め。どうでもいいが、彼の青い目はハリウッドで一番ビューティホーだと思う。相棒役のジャック・ウォールデンも良い。

(小ネタ)
有名な話だけど、ポール・ニューマンは無冠の帝王と言われたひとり。彼は何度もアカデミー賞主演男優賞にノミネートされているけど、実力は文句なしなのに、巡り合わせが悪くてオスカーが取れなかった。特に、82年アカデミー賞は激戦で、主演男優賞ノミネートは『ガンジー』のベン・キングスレー、『トッツィー』ダスティン・ホフマン、『ミッシング』ジャック・レモン、『My Favorite Year』ピーター・オトゥール(日本未公開)、そして『評決』のポール・ニューマンという錚々たる顔ぶれ。そして主演男優賞はベン・キングスレーの手に。86年『ハスラー2』で遅すぎるオスカーを獲得した。

Cinema Diary Top

「私の中のあなた」  2009年  アメリカ

監督;ニック・カサヴェテス
出演;キャメロン・ディアス,アビゲイル・ブレスリン,ソフィア・ヴァジリーヴァ
2010年9月?日  wowow録画  自宅ごろ寝シアター

dvd 11才のアナは、白血病の姉ケイトの臓器提供者になるべく遺伝子操作によって生まれてきた。アナは大好きな姉のために何度も臓器を提供してきたが、ある日突然「もう姉のために手術するのは嫌、自分の体は自分で守る」と臓器提供を拒否し、両親を訴えた。
テレビをつけたらちょうど始まったところで、何となく見はじめたのだが(母親役のキャメロン・ディアス嫌いだし)、拾いものだった。映画は出会い。私は良い映画だと思う。しかし、このタイミングで出会わなかったら、これほど心に残ったかは分からない。この映画を見る数ヶ月前に、私自身同じような経験をしたこともあって、この家族の辛さがもの凄くよく分かってしまったのである。物語は倫理問題を扱うかのように見えるけど、そこは肯定も否定もせず中途半端で、むしろ、病と死をめぐる家族の葛藤を家族それぞれの立場から描く。テーマとしては後者の方がずっと重い。
家族が余命宣告を受けた時、本人も家族もその事実を受け入れるしかないと頭では分かっていても、簡単ではないのが現実だ。それが若い命ならなおさらだろう。どうしてこんなことになったんだ、間違いじゃないか、何か手だてがあるんじゃないか、奇跡が起きるかもしれない…愛情の深い人ほど受け入れられない。絶対に助かると娘ケイトに無理な治療を強要する母親と、穏やかに残りの日々を過ごしたいケイトと、姉の思いを叶えてあげたい妹弟と、妻や子供たちの気持ちを冷静に理解しようとする父親と。家族の愛し方、死に対する考え方は、本人、母、父、兄弟それぞれに違っていて、それぞれに正しく、ぶつかり合う。残された時間が少ないなかで、家族で言い争いなんかしたくないけど、ケイトのことを思えばこそしなければいけない状況も出てくる。これは辛い。軽薄なお涙頂戴映画のように、家族は、「可哀想」だの「泣ける」だの、失うことの悲しみだけでは済まないのである。難病映画は多いけど、必ず直面する"死をどう受け入れるのか"という家族の苦悩をここまできちんと描いた作品はなかったと思う。私はここをいちばん評価したい。
また、この映画に登場する弁護士も判事も、大切なものを失いながらも、懸命に生きている人たちである。それによってこの家族が相対化される。こうした不幸は特別なことではなく誰にでも起こりうることであり、この家族もまた悲しみを乗り越えるだろうと予感させる。

本の紹介
私自身が、余命僅かな家族に何ができるのか、死が受け入れられない母親に対してどうすればいいのか、悩んで、真っ暗闇のなかで途方にくれていた時に、小さな明かりをともしてくれた本があった。紹介しておこう。

Cinema Diary Top

「ダウト あるカトリック学校で」  2008年  アメリカ>

監督;ジョン・パトリック・シャンリー
出演;メリル・ストリープ,フィリップ・シーモア・ホフマン,エイミー・アダムス
2010年9月?日  wowow録画  自宅ごろ寝シアター

dvd 1964年、NYのあるカトリック学校。厳格で古い価値観の校長シスター・アロイス、純真無垢な新任教師シスター・ジェイムズ、進歩的考えのフリン神父。シスター・アロイスがフリン神父が黒人生徒と「不適切な関係」にあると疑い、執拗な追求がはじまる。
見どころはシスター・アイロス演じるメリル・ストリープとフリン神父演じるフィリップ・シーモア・ホフマンの対決。舞台劇の映画化のため室内での会話劇が中心だけど、そこに実力派俳優(2人ともオスカー俳優)を配し、圧巻の対決シーンを見せてくれる。もう息を呑む凄まじさ。付け加えると、二人の間で揺れ動くシスター・ジェイムズ役のエイミー・アダムスもなかなか奮闘。
真相は明らかにされないが、素直に解釈すればフリン神父が黒に近いグレーなのだろう。疑いの闇は、気に入らない相手ほど深くなり、終いには、証拠なんかなくても絶対にそうだと確信してしまう。校長という立場のシスター・アロイスにしてみれば、信仰上、彼の疑わしい行為が許せないというだけでなく、学校運営においても思想的に合わないフリン神父が気に入らなかった。だから、疑いにあれほど執着し、"嘘をつく"という神から遠ざかる行為をしてまでも、フリン神父を窮地に追い込まなければ気が済まなかったのだろう。
フリン神父は罪を犯しているかもしれない、でも自らの弱さ、罪を犯す苦しみを知っているから、黒人でいじめられっ子でおそらく同性愛という誰にも言えない悩みを持つ孤独な少年の心にも寄り添える。一方、シスター・アロイスは、誰だろうと疑うことからはじめ、どんな小さな罪でも自分も含めて厳しく罰する。彼女の疑いの目は的確で、問題が大きくなる前に内々に処理し、組織の上に立つ者としての職責をきっちり果たしたのかもしれない。しかし、誰からも怖れられ、孤独である。あれだけ強気のシスター・アロイスが最後に泣き崩れるシーンは印象的。疑いは、疑われる方も疑う方も苦しめるのに、それをやめることが出来ない彼女の罪悪感、悲しみをひしひしと感じてしまう。でもね、疑うことに罪悪感を感じているシスター・アロイスはまだまともなような気がするの。世の中には、あらぬ疑いで人を苦しめ、それが正義だと勘違して得意気になるバカもいるからね。
60年代半ばという時代設定もミソ。アメリカでは、経済的に豊かな白人層を中心とした社会と保守主義(宗教的・伝統的規範の重視)が揺らぎ、リベラルの時代へと大きく変わりつつあった。公民権運動や学生運動が活発になり、性の解放が叫ばれて同性愛者たちが声を上げ、伝統的な価値観に反発する若者層がヒッピー文化を形成しはじめていた。つまり、基督教的規範に厳格で、古き良き伝統・モラルを何が何でも守ろうとするシスター・アロイスと、時代の変化に適応して黒人や同性愛などのマイノリティに寛大にフリン神父は、そのままこの時代の対立構図でもあるようにも思う。

Cinema Diary Top