大人は判ってくれない

原題;「Les Quatre Cents Coups」 1959年 フランス
監督;フランソワ・トリュフォー
出演;ジャン=ピエール・レオー

トリュフォー26才の時の長編第一作。自伝的な映画。トリュフォーが語っているように、この映画には嘘も、誇張もない。

アントワーヌ(ジャン=ピエール・レオー)に惹きつけられるのは、"受け入れられることを切望しているのに、拒絶されてしまう存在"だからだと思う。学校では、悪さをするのは彼だけじゃないのに、不器用なために、何とかしようと思うほど結果が裏目に出て、彼だけが問題児になる。家庭でも母親がつらく当たっても、彼は反抗していない。彼なりに受け入れらようと努力もするが、子供の浅はかさゆえ努力の方向をちょっとだけ間違えてしまうのだ。しかし、そんな彼を誰を理解する人はいない。母にとっては所詮「堕すつもりだった」子供であり、義理の父も彼には関心がないから。彼は母親の浮気を黙って見過ごし、両親の口論をじっとうずくまりながら聞いている。仕方がないから、家出をし、親のお金をくすね、空腹を満たすために盗みもする。アントワーヌは好きで悪いことをしているわけではない。しかし、彼は手に負えない厄介者として、両親に「少年鑑別所」へ捨てられる。判ってほしいのに、判ってもらえないもどかしさ、孤独。この悲しみは大人も子供も同じだと思うが、子供は大人のように自力で環境を変えることが出来ない分、一層切実だ。アントワーヌは何度も言う「早く自立したい」と。

トリュフォーは自伝的な映画であるにも関わらず、感傷を排し、突き放したような視線で、パリの街を彷徨うアントワーヌを撮りつづける。それが、どこにも居場所がないアントワーヌの孤独をひしひしと感じさせるのだが、この視点が逆転して、ほんのちょっとだが、アントワーヌの視点で周りの景色を捉えるところがある。タイプライターを盗んだ彼が父親の手で警察に差し出され、留置所に入れられる。その時、彼は金網ごしに警察署内を見わたす。そして、娼婦たちと一緒に護送車に乗せられ、鉄格子の窓から、揺れながら遠ざかるパリの街を見る。アントワーヌの疎外感が否応なしに押し寄せてくる。学校にも両親にも、孤独を紛らわせたパリの街にも、すべてから追放され、彼は、この時はじめて涙を流す。彼が悲しみを顕わにする唯一のシーンである。孤独という言葉が陳腐になるぐらい、どうしようもなく胸が締め付けられる。
最も印象的なのは、有名なラストシーンだろう。少年鑑別所を抜け出したアントワーヌはひたすら走り続ける。長い道のりの果てに、海が見え、波打ち際まで走っていく。そして、彼が、突然、振り返ったところで、ストップモーションになり、カメラが彼の顔のアップを捉える。この時の彼の表情は複雑で、見る人によって捉え方が違のではないかと思う。私は、誰にも頼らずに、一人っきりで生きていく決意のようなものを感じた。それは辛くて孤独かもしれないけど、同時に自由もある。

映画の冒頭には「『アンドレ・バザン』に捧ぐ。」という献辞が入る。アンドレ・バザンは、トリュフォーが「精神的父親」と呼んだ人。トリュフォー16才の時、シネクラブを通じて知り合った。バザンは、トリュフォーが父によって少年鑑別所に入れらた時も、その数年後、脱走兵になって軍刑務所に入れられた時も、手を尽くしてトリュフォーを救いだした。そして、小学校さえまとも卒業していない、精神的に不安定だったトリュフォーに映画の才能を見いだし、映画批評を書くこと、映画を撮ることを勧めた。しかし、『大人が判ってくれない』の完成を見ることなく、結核により40才で亡くなる。私の思いこみだが、トリュフォーは「精神的父親」バザンに、自分の過去を告白するように、この映画を撮ったのではないかと思う。トリュフォーとバザンとの関係は、山田宏一『トリュフォー、ある映画的人生』(平凡社ライブラリー)に詳しい。

『大人は判ってくれない』の後、トリュフォーは俳優ジャン・ピエール・レオーの成長に合わせて、アントワーヌを主人公としたシリーズものを4作品撮った(「北の国」からみたいだ…)。これらの作品には、もはや自伝的要素はなく、『大人は判ってくれない』でトリュフォーと一体化していたアントワーヌが、トリュフォーとは別のキャラクターとして自立していく。作風も、『大人は判ってくれない』のような深刻さはなく、ややコミカルな感じだ。アントワーヌの初恋を描いた短編『二十歳の恋』、そして兵役を終えたアントワーヌの社会復帰、婚約までを描いた『夜霧の恋人たち』、結婚生活・浮気を描いた『家庭』、そしてアントワーヌシリーズの総集編と言ってもいい『逃げ去る恋』。そこには、幾つになっても成長できず、安定した生活を望みながらも、仕事にも家庭にも適応できないアントワーヌがいる。

ヌーヴェル・バーグ? 何それ? 美味しいの?。いや、冗談じゃなくて…。この作品を初めて観た時、私の映画の知識はそんなもんだった…(汗)。
ヌーヴェル・バーグはフランス語で「新しい波」。1950年代半ば以降、フランスの若手監督たちによる映画運動。彼らは旧来のフランス映画の文学的雰囲気、監督のシナリオへの従属、演劇的要素、スタジオでの撮影などを批判した。そして、監督の作家主義を掲げ、即興的演出、手持ちカメラ、ロケーション撮影など斬新な手法で(今では普通だが)、みずみずしい作品を生み出していった。フランソワ・トリュフォー、ジャン・リュック・ゴダール、ルイ・マルなどが代表監督。と、大抵の解説書には書かれてある。(中条省平『フランス映画史の誘惑』集英社新書)。
実際、『大人は判ってくれない』も、ほとんどがパリ市街のロケ撮影で、即興演出も取り入れている。(詳しくは、山田宏一『フランソワ・トリュフォー映画読本』平凡社)。同作品は、ヌーヴェル・バーグの代表作のように扱われるせいか、批評や解説ではどうしても、こうした撮影手法とか、素材の新鮮が注目されがち。しかし、そんな知識は一切なくても、涙が出るぐらい感動したし、今まで観た映画のなかで一番、好きな映画だ。その他のヌーヴェル・バーグ作品や、トリュフォー監督を知った上で何度か観て、さらに深まったのは確かだけれど、私はこの映画に関しては、まっさらな状態で観た時の感動を大切にしたいなぁと思う。

2004.2

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