「ハート・ロッカー」  2008年  アメリカ

監督;キャスリン・ビグロー
出演;ジェレミー・レナー,アンソニー・マッキー
2011年11月?日  録画  自宅ごろ寝シアター

dvd

爆発物テロが日常茶飯事に起きているイラク・バグダット。アメリカ軍、ブラボー中隊の爆発物処理班リーダーが殉死したため、新しいリーダーとしてジェームズが着任した。彼は作業手順や指示を無視し、無謀なやり方で爆発物処理に当たる。そんな彼の行動に仲間たちは不信感を募らせる。"hurt locker"とは、スラングで苦痛の極限状態という意味。
何度見ても、命が縮むような思いだよ…。オープニングから最後まで爆弾処理で、終わったか…と思うと、またとんでもない爆弾処理がはじまる。瓦礫に埋められた爆弾、砂のなかから芋づるのようにゾロゾロと連なって出てくる爆弾、車に巧妙に隠された爆弾、子供の死体に仕掛けられた爆弾、解除されないようたくさんの鍵がつけられ、生きた人間に巻き付けられた爆弾…。携帯電話で起爆させるから、いつだれがスイッチを入れるのか分からない。そこらを歩いている年寄りや、子供も敵かもしれない。緊迫感が、波のように次々と襲ってくる。手持ちカメラ、粒子の粗いドキュメンタリー風映像で、リアリティ演出も手抜かりなし。多分、事実に基づく描写だと思うけど、こんなことが日常茶飯事であることにショックを受ける。時々、画面に「ブラボー中隊 任期開けまで○日」とか、字幕が入るのだが、まだあと30日もこんなことが続くのか…とグッタリし、日数が減っていくごとに、どうか無事に任期が開けてくれ…と祈るような気持ちになる。
この映画のテーマは冒頭の「戦闘での高揚感はときに激しい中毒となる。戦争は麻薬である」に集約される。近ごろ戦争映画は、国家やイデオロギーといった大局的視点が後退し、個々人へと焦点が絞られる傾向があるけど、その究極にある映画だと思う。本作は爆発物処理中毒の男を描いただけで、それ以上でも以下でもない
主人公ジェームズは決して正義感とか、使命感とか、愛国心から爆発物処理をしているわけではなくて、生死紙一重の"ハート・ロッカー"に身を置いた時の精神的高揚感を求めているだけ。死と隣り合わせの緊迫感、難しい爆弾を解除した時の達成感と充実感、死の危機から脱した時の解放感…彼にとっては、これらが人生の他の何よりも勝るのである。無事に任期が終了し、家庭に帰っても頭のなかは爆弾の事ばかり。爆発物を前に爛々と輝いていた目は、家庭では死んだ魚の目のよう。砂漠、戦場という過酷な環境、いつ死んでもおかしくない、つねに崖っぷちを歩いていることに生きる喜びを感じる彼には、長閑で、何もしなくても平和で、何不自由なく生活できる環境にいることに、これっぽちの価値も見いだせないのだろう。彼はまだ言葉も分からない幼い息子に、自分にとって大切なのは"戦場>>>息子"だ、許して欲しいと言い聞かせる。そうした価値観が非難されるものであっても、異常だと分かっていても、彼は何度でも戦場に戻ってしまう。中毒者だから。ラストカットは、再び戦場に戻ったジェームズが、防護服を着て自信に満ちた表情で爆弾処理に向かうところ。画面には「デルタ中隊 任期開けまで365日」…orz。またあの日々が365日はじまるのかと思うと、虚脱感におそわれるよ。
本作は、女性監督初のアカデミー作品賞受賞。よく知られた話であるが、キャサリン・ピグロー監督は、ジェームズ・キャメロン監督の元妻。この年、アカデミー賞はジェームズ・キャメロン『アバター』と騒がれたが…てんで勝負になってないじゃん。だれが見ても、制作費1500万ドルの低予算映画『ハート・ロッカー』>>>>>制作費2億3700万円の超大作『アバター』。

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「父と暮らせば」  2004年  日本

監督;黒木和雄
出演;宮沢りえ,原田芳雄,浅野忠信
2011年11月?日  録画  自宅ごろ寝シアター

dvd

原爆投下から3年後の広島。図書館に勤める美津江は、自分だけ生き残ったことに負い目を感じており、図書館をたびたび訪れる木下に想いを惹かれながらも、幸せになってはいけないと心を閉ざしていた。そんな娘を心配した父が、亡霊となって娘の前に現れた。
娘は原爆で生き残った人たちの声、父は死んだ人たちの声なのだろう。死んだ人たちに申し訳ないと思う娘と後ろめたく思わないでほしい父、幸せを拒否する娘と幸せになって欲しい父、忘れたい娘と伝えて欲しい父。父親の愛情と願いが、美津江を忘れたい記憶に向き合わせ、未来へと導いていく。
原作は井上ひさしの戯曲。本作はこの戯曲に忠実で、舞台を基本に、舞台では表現できない原爆投下や焼け野原のCG映像、カメラワークの工夫など映画的な演出を補ったという感じ。ほぼ美津江と父の二人芝居である。井上ひさしの原作脚本の素晴らしさ、言葉の豊かさ、そして清廉な宮沢りえと温かみのある原田芳雄の演技力が、本作を名作にしたと言っても決して大げさではない。むしろ映画的演出=たびたび出てくる原爆ドームのカット、丸木位里・俊の原爆絵の挿入、ラストの2輪の花などが、わざとらしくて余計なお世話に感じたぐらい。
井上ひさしのセリフは具体的である。膨大な被爆者の証言や体験談を読んで、この脚本を書いたと言う。美津江の親友がどうやって死んだか、娘と父はどうやって別れたのか、また原爆についても爆発から1秒後の温度1万2000度、太陽2個分、爆風秒速350m…と二人に詳細に語らせ、小道具として原爆瓦や変形した薬瓶なども登場させる。宮沢りえ、原田芳雄の二人から発せられるこうした豊かな言葉と表現は、原爆を知らない者に原爆の恐さを具体的に想像させ、惨い死、惨い別れ、生き残った者の苦しみに寄り添わせ、胸を締め付ける。映画ではめったに涙が出なくなった私だけど…終盤のジャンケンのシーンは、父の愛と、娘の辛さと、こんなことは二度とあってはいけないという思いから、涙が流れた。

※ ついでの情報 ※
黒木和雄は、『TOMORROW 明日』(88年)以降、庶民の視点から戦争を撮り続けた。2015年8月1日〜21日、岩波ホールで黒木和雄の特集が組まれる。『TOMORROW 明日』(88年)、『美しい夏キリシマ』(02年)、『父と暮らせば』、『紙屋悦子の青春』(06)が一挙上映される。観に行かねば。

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「ジョニーは戦場へ行った」  1971年  アメリカ

監督;ダルトン・トランボ
出演;ティモシー・ボトムズ,キャシー・フィールズ,ダイアンヴァーシ,ドナルド・サザーランド
2011年11月?日  DVD  自宅ごろ寝シアター

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第一次世界大戦に参戦した米国の兵士ジョーは、砲撃で両腕両足、顔は吹き飛ばされ、視聴覚も声も失った。彼は体を動かすことも、意思を伝えることもできない。医師は彼の脳は機能していないと決めつけている。彼は自分の境遇を嘆き、意識は現実と過去、夢のなかをさまよう。ある日、一人の看護婦が彼に意識があることに気がつくが…。
肉体的にも精神的にも戦争がいかに人間の尊厳を踏みにじるか、という切り口の反戦映画。ジョーの独白形式で映画は展開する。手がない、足もない!。顔には大きな穴!。彼が唯一できることは、僅かな感覚で自分の身に起きていることを想像し、嘆き苦しむことだけ。ジョーの夢のなかに出てくる神は虚しく、彼を救えない。自ら死ぬこともできない。彼の悲痛な叫びが無視しつづけられ、存在が闇に葬られることは、彼にとっては一生拷問が続くこと。「それでも僕は何かしなければならない、なぜならこのままの状態ではいられないからだ…」と、聞き届けられないSOSを発信しつづけるジョーに、胸がえぐられる。観終わった時、言葉も出なかった。なんと表現すればいいのか分からない重苦しさだけが心に沈殿する。人間が人間らしく扱われないこと、これ以上の悲劇はない
ジョーは特殊な存在ではない。原題「JOHNNY GOT HIS GUN」を訳すと「ジョニーは銃をとった」。有名な話だが、このタイトルは第一次世界大戦のスローガン「JOHNNY GET YOUR GUN」(ジョニーよ銃をとれ)から付けられた。主人公の名前はジョー。ジョーはたくさんの"ジョニー"のひとりにすぎないという意味が込められている。否応なく召集され、戦地に送られ、自由は奪われ、逃げ出すことも、抵抗も批判もできず、命令には絶対服従で、生命と健康な体を破壊される状況にさらされ、殺すことを強制される。そして国家は、彼らが直面する戦場の悲惨な現実が公になることを怖れ、隠し通そうとする。たとえ運良く体を破壊されないにしても…である。前線の兵士たちは、戦争目的以外の手足も、意思も奪われており、その意味ではジョーと同じ状況下に置かれている。主人公ジョーは戦地の兵士たちを体現した存在なのではないかと思う。戦争は、たくさんの"ジョー"を生み出す。
この人間の尊厳というテーマは、監督ダルトン・トランボの経験が関わっていると思われる。彼はもともと脚本家で、監督作は本作のみ。欧州大戦が勃発した1939年にこの原作を出版するものの、反戦的内容であったために45年に発禁処分となる。さらに戦後の冷戦体制下、共産党員であった彼はマッカーシズム(赤狩り)により実刑を受け、ハリウッドを追放された。貧困のなか、偽名でB級映画の脚本を執筆して食い繋いでいたと言う。彼の脚本代表作は、『ローマの休日』、『スパルカタス』、『いそしぎ』、『パピヨン』など名作ばかり。マッカーシズムは、こんなにも才能豊かな人から10年以上、表現することを奪った。権力によって存在を闇に葬られるジョーとトランボ自身が重なってくる。

※ ついでの小ネタ ※
ダルトン・トランボ と 『ローマの休日』

日本人が大・大・大好きな『ローマの休日』。長年イアン・マクレラン・ハンター脚本とされてきたが、実はダルトン・トランボの執筆であったことは、今ではよく知られた話。彼はこの脚本を書いた後に、赤狩りで投獄をされた。ウィリアム・ワイラー監督がこの脚本に注目した時には、トランボはハリウッドを追放されており、作品を発表することができなかったため、フィルムにはトランボの友人である脚本家イアン・マクラレンの名前をクレジットした。イアン・マクラレンもリスクを承知の上だったと言う。(最近のDVDでは、クレジットがダルトン・トランボに修正されてるみたいですよ)。
ウィリアム・ワイラー監督はスタジオ撮影が当たり前だった時代にオールローマロケを敢行し、『ローマの休日』はハリウッド初の全編海外ロケ映画となった。そのために予算が足りずモノクロフィルムでの撮影になった。さらに、映画会社が提示したケイリー・グラントとエリザベス・テイラーではなく、グレゴリー・ペックとオーディションで駆け出しのオードリー・ヘップバーンを起用した。
なぜ、そこまでしてオールローマロケ、配役にこだわったか?。彼は共産党員ではなかったが、ハリウッドでの反赤狩り運動の急先鋒に立っていた。ハリウッドを離れれば、映画会社の目が届きにくくなる。トランボの脚本、ブラックリストに載っているスタッフ、同じく反赤狩り派のグレゴリー・ペック。赤狩りで追放されたり、標的にされている人たちと映画が作りたかったからである。『ローマの休日』の撮影は、彼なりの赤狩りへの抵抗、そして追放された仲間たちへの支援であった。

さて問題です。
ローマの休日の原題は何でしょう?。

正解は『Roman Holiday』(ローマ風の休日、ローマ人の休日)。ちょっと変だと思いません?。『Holiday in Rome』(ロー マの休日)の方が、内容的にもしっくりくるのに。わざわざ『Roman Holiday』としたところに、実は赤狩りへの皮肉が込められている。「Roman Holiday=ローマ人の休日」とは、ローマ人が奴隷に剣を持たせて奴隷同士で闘わせ、それを見世物にして楽しんだ、ということを意味する言葉でもある。つまり、赤狩り賛同者は、仲間の裏切りを強要し、密告させあい、それをワイドショー的に楽しんでいるということ。こういう背景を考えると、映画のなかの「真実の口」のシーンなんか、かなり意味深だったりする。
トランボの素敵な脚本。ローマ市内を走るスクーター、スペイン広場でのアイスクリーム、ローマ名所をめぐる二人のデート…名シーンの数々。グレゴリー・ペックのちょっと野暮ったい男の優しさ、ヘップバーンの初々しさ。ウィリアム・ワイラー監督の赤狩りへの抵抗が、この名作を誕生させたと言ってもいいのかもしんない。

参考文献 金城一紀『映画篇』集英社,2010年6月。(現在は新潮文庫)

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「太陽を盗んだ男」  1979年  日本

監督;長谷川和彦
出演;沢田研二,菅原文太,池上季実子,北村和夫
2011年11月?日  DVD  自宅ごろ寝シアター

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中学校の理科教師の木戸誠は、東海村原子力発電所からプロトニウムを盗み、自宅で原爆を完成させた。そして自ら「9番」と名乗り(当時の核保有国は8カ国、9番目の保有者という意味)日本政府にプロ野球ナイター完全中継やストーンズ日本公演などを要求しはじめた。
もはやレジェンドな映画。内容的にも映像的もここまで過激で(多分テレビ放映できないレベル)、エンターテイメント性が非常に高く、それでいてリアルな恐怖まで感じさせる、こんな映画他に見当たらないから。70年代を多少知る者としては、70年代という時代の空気を強烈に感じる映画でもある。
基本的には娯楽アクション映画でぶっ飛んだストーリーだけど、本当にこんなこと起きるかも?と思わせるリアリティが巧みに仕込まれている。それがただの娯楽映画に終わらせない、この映画の凄いとこ。そのひとつが原爆を作るシーン。現実には知識があったとしても、素人が原爆を作るのは、設備、技術、資金的に不可能だろう。しかし、この映画では、城戸誠が狭いアパートの一室で原爆を作る過程を、正しいと思われる手順で、具体的に、細かく映像化してしまったことで、疑いをねじ伏せ、原爆は簡単に作れると観客にすり込んでしまうのである。このシーンは白眉。また、撮影も大胆で、実際に皇居前にバスをツッコませたり、女装の沢田研二を国会議事堂に潜り込ませたり、渋谷のビル屋上から札束(撮影用の偽札)をばらまいたり…これらをすべて無許可でゲリラ撮影。この臨場感と緊張感は半端ない。こうしたリアリティの仕込みが、たとえ城戸がどんなに漫画チックなことをしでかしても、映画の世界に現実世界の感覚をつなぎ止めてしまうのである。
そして人物像もリアル。沢田研二演じる城戸誠は、いかにも70年代末頃の日本にふっと現れそうな若者。この時代の若者を「しらけ世代」と言うことがあるけど、高度成長も終わって、学生運動も収束し、「熱血」がバカバカしくなった時代。城戸もまた生きる意味が見いだせず、社会や権力や、仕事や今の自分にも漠然と不満と苛立ちを抱えていて、これらを打ち破りたいという衝動だけがある。だから、目をキラキラさせて、原爆という最強最悪な脅し道具を手に入れることに異様なエネルギーを注ぎ込むけど、いざを手にしてみると、何を要求したいのかが分からない。自分が孤独で空っぽな人間であることに気づかされる。城戸がしょっちゅう膨らませてはパチンとはじけさせる風船ガムは、原爆雲のイメージなのだろう。城戸のような人物は今でもまだ現実味があるような気がする。だから怖いんだろうな。
残念なのは、女性の描き方が下手なこと。唯一の女性キャラ、ゼロはただのバカ女で、ぜんぜん魅力を感じない。あの文太兄貴に小っ恥ずかしい色仕掛けさせたり、安っぽい死に方したり、ゼロが絡むシーンの演出は陳腐。さらに池上季実子の演技も下手で、ゼロが出てくるとイラッとする。でも、70年末頃の女性DJって、ぶりっこで、軽〜いノリで、空虚なことばっかり喋って、あんな感じだったのかしら。
原案・脚本がレナード・シュナイダー。この名前どっかで見たような気がして、ググってみると、予想もしなかった映画タイトルがひっかかる。『蜘蛛女のキス』の脚本家かー、しびれる脚本書いてるなぁ。日本に留学経験があり、『男はつらいよ 寅次郎春の夢』の共同脚本、相米慎二『ションベンライダー』の原案まで作っていたとは。それよりもっと驚いたのは、彼の兄は『タクシー・ドライバー』(76年)の脚本家ポール・シュナイダー!。そうか〜そう言われると、このシラけた時代の空気感、何がしたいのかよく分からない主人公の虚ろさと狂気は、『タクシー・ドライバー』を彷彿させるわ。想像の域を出ないけど、この脚本は『タクシー・ドライバー』の影響を受けてるかもね。

↓この予告は映画の内容を正しく紹介していない。文太兄貴は「負け続けて」いないし、ジュリーは夢を持てない男なので「日本列島をオレの夢で埋める」ってのも変。

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「東京原発」  2004年  日本

監督;山川元
出演;役所広司,段田安則,平田満,田山涼成,菅原大吉,岸部一徳,吉田日出子,綾田俊樹,徳井優,増岡徹,塩見三省
2011年11月?日  DVD  自宅ごろ寝シアター

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カリスマ都知事が「東京に原発を誘致する!」と宣言。都庁内では大激論が巻き起こる。そのさなかに秘密裏に走らせたプロトニウム燃料輸送車がカージャックされた!。社会派コメディ。3.11の原発事故後に、もしや予知映画だったのでは?と騒がれた映画。
ど素人が何を言うと怒られそうだけど。正直、映画としてはどうなのかなぁ…と思うところはある。ほぼ室内劇で、無知な官僚たちの疑問に答えて、ちょっと風変わりな研究者が原発の問題点を解説する内容。室内劇の場合、動きが乏しいから、シナリオ、映像、カット割り、編集が重要になってくるが、シナリオはドラマと言うよりは教育テレビみたいだし、映像やカット割り、編集も平凡すぎ。個性的な演技派俳優たちにかなり救われていると思う。これだけだと映画的盛り上がりに欠けるので、カージャックという室外での事件を並行して展開し、ドキドキ感とカメラを外に出す要素を取り入れているが、このパニック劇も『踊る大ナントカ…』みたいで、ありきたり。
それでも、のめり込むように観てしまうのは、監督の原発問題の掘り下げ方が深く、着眼点が鋭いから。原発を推進したがる人たちが、巧妙に覆い隠してきた都合の悪い事実=原発絶対安全は嘘であることを、具体的な資料やデータを用いて次々と暴いた。そして「東京に原発を作る」「大地震がくる」、そういった危機が身近に迫るまで他人事として傍観し、結局は原発を稼働させてしまってきた人間たちの愚かさまでもえぐり出す。私を含め大多数の原発傍観者に、コメディという興味関心を惹きやすい手法で、分かりやすく、真面目に原発問題を考えさせるきっかけを作ったという意味で、価値ある映画であると思う。
のどもと過ぎれば何とやらで、3.11直後は、あんなに危機感をもって原発に頼らずに長期的にエネルギーをどう確保するかという議論がなされていたが、いつの間にやら立ち消えて、原発再稼働の準備が進められている。事故の記憶が薄れ、傍観者が増えつつあるなか、再び原発でエネルギーを安直に得ようとする方向に進んでいるような気もする。しかし考えてみれば、2011年3.11〜2015年5月現在までの間に、大飯原発が一時期に再稼働しただけで、この間の電力の原発依存度はゼロに近いと思う。3.11前は30%近かったから大激減である。近ごろの原油安に救われているところもあるだろうし、原発なしでのエネルギー供給状態・コストの日本産業への影響は私が思うより深刻なのかもしれないけど、ほぼ原発なしで4年もやってこれてるじゃん、再稼働しなければしないで何とかなるんじゃね?って、私は思っちゃうんですけど。甘いですかね。

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